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          ((2) サタンの妨害(つづき)
           
          
          <キリストを信じていると思っている人々の福音経験(救われること、潔められること)を失わせ
           
          る> 
           サタンの方策は、いつの時代でもこうです。まず神のことばが人間に届けられ救いの証が語
           
          られて人が救われないようにします。そして、人が救われると今度は脅しにかかります。周囲に の人々の救われた人への取り扱いは「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う 者はみな、迫害を受けます。」(テモテU3:12)それでもなお、信仰を堅く保つ人には、今度はぬる い環境に入れることつまりこの世の富や、名誉、権力、様々な誇るもの、あるいは快楽を与え てだんだん信仰を失せさせるのです。つまりイエスが語られた種まきのたとえのとおりにサタン は働きます。 
          「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、
           
          その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。・・また岩地に蒔かれるとは、・・迫害が起こる と、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世 の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:18 〜22) 
          それは、国家や民族の規模でも、教会でも、また個人でもそうなのです。
           
          
           国の例は、サタンの迫害の例として取り上げたキリスト教がローマ帝国に広まり始めた時が
           
          そうでした。クリスチャンはその時迫害には屈しませんでした。しかし、キリスト教がローマ帝国 の国教となり、十分の一税が教会に納められ、ローマ教会に富と権力が与えられますと、たち まち世俗化し、救いの信仰は失われてしまいました。 
           教会の規模でも同様のことが進行します。教会に育った子女が、救われることなしにそのま
           
          ま善男善女として教会にとどまり、ある年になれば、長老、役員となって教会を動かすようにな ります。やがて教会が救われていない人々の集団になるのです。彼らは幼い時からキリスト教 を教えられ、自分はそれなりに罪人だと思っているし、キリストは救い主だと思っているし、聖 書は神のことばだと思っているのです。しかし罪を言い表し、十字架を仰いでキリストを自分の 個人的な救い主として受け入れ、神にその悔い改めを認められて、新生のいのちを与えられ ていないのです。ですからそのような教会は単なる社交場となってしまいます。 
           真理の柱、真理の基であるべき教会が救われていない人々の集まりとなるとはなんと恐ろし
           
          いことではありませんか。 
          (以下次号)
           
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