巻頭言
「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれ
て御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ4:2〜3)
私たちの教会では――もう何十年も続けられて来ているのでしょうが――信徒説教というも
のがあり、現在責任役員のうち7名に2人の婦人伝道師を加えた合計9名が毎年1月、8月、 12月を除く9ヶ月の第3聖日の伝道会に一人ずつ務めを果たしています。当務者の側からす れば年に一度その任が回ってくることになります。私が牧師職を辞させていただいて7年目に 入りましたが、今年の順番はまだ回って来ないので過去6度信徒説教をさせていただいたこと になります。はじめの1、2度は牧師であった時とは感覚が大きく違うことにただ戸惑っておる だけでしたが、5度6度と回を重ねるうちにこれは単に信徒が独自の視点で聖書を語るという ようなものではなく、「信徒説教」という一つの大きな分野とも呼べるものではないか、と思われ て来ました。確かに「信徒」がする「説教」でしょうし、或いは証しのようなものと捉えて間違いで はないでしょうが、「信徒説教」は信徒が牧師のメッセージに生きて、そこから生まれて来る証 言、つまり牧師のメッセージへの応答であるべきではないか、という思いに行き当たったので す。そうであるとすると、私は救われて20年以上経ちますが、牧師であったときには自分の説 教を語ることに精一杯で他人のメッセージに生きるということには全く考えが及ばなかったの で、信徒として牧師のメッセージへの応答を語るということについては全くのヨチヨチ歩きという ことになります。牧師をしていた者にとって信徒説教なんて軽いものだろう、と思う方もいらっし ゃるかも知れませんが、私はそれは全く当て嵌まらないと思います。「信徒」として何年も何十 年も牧師のメッセージに生きることに努めてみて初めて真の「信徒説教」が生まれて来る、そ のような一大分野なのではないでしょうか。
今年私たちの教会の礼拝では「主の御名のために」という大きなテーマの下にサウル王の記
事から様々と語られています。その中で最近心に留まったことは、王としてある程度完成され た器であったサウルが立てられイスラエルに王制が始められようとしている中で、神のお取り 扱いの中サウルとイスラエルは自分自身が何者であるかを自ら知らなければならなかった、そ のために神がお与えになった出会いがあった、という問題です。平時の中に生きている限りは 知りえない自分自身の信仰者としての姿を神が出会わせて下さる出来事によって知らしめら れることには恐ろしさもありますが、それを幸いとして捉えることの出来る信仰者であらせてい ただきたく願います。そしてまだまだそこにどれほども生きたとは言えない者ですが、今年の当 務にはその問題と、冒頭に掲げた今年の年頭に私自身が与えられた聖句と御霊の一致という テーマ、それらを結びつけて「信徒説教」をさせていただくことが出来たなら幸いに思います。 |