「同労者」第61号(2004年11月)   Q&Aルームへ進む  目次に戻る  巻頭言に戻る

論  説

 − どうすれば霊的に進歩できるか 

「敬虔のために自分を鍛練しなさい。・・今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、
すべてに有益です。・・ このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばで
す。・・私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じ
る人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。
これらのことを命じ、また教えなさい。年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにし
なさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさ
い。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。・・
これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明ら
かになるでしょう。自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさ
い。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」(テモテ
T4:8〜16))


 読者の皆さんは、自分が神の前にどんな霊的姿をしているか知りたいと思われませんか?
私たちが自分の霊的姿がどのようなものか知りたかったら、自分の「ことば、態度、愛、信仰、
潔め」をよく考えてみることです。そうすれば、「聖書のことばは鏡の役目をする」と言われてい
るとおり自分の霊的姿がそこに映し出されるでしょう。
 上の聖書箇所は使徒パウロが、弟子テモテに教えている部分です。はじめの「敬虔のために
自分を鍛練しなさい。」は、文語訳聖書では、「敬虔を修行せよ。」となっていました。敬虔を目
的とした鍛錬ではなく、敬虔そのものを修行して身につけよ、と命じているのです。パウロは「こ
とば、態度、愛、信仰、潔め」から始めませんでした。まず「敬虔を修行して身につけなさい。」
とテモテに勧めました。そして付け加えています。「敬虔はすべてに有益です。」と。
 すべてに有益であるだけではありません。「敬虔なしには」クリスチャンとしての「すべてが無
い」のです。敬虔とは「神を畏れる」ことです。「神のことば、すなわち聖書のことばを畏れる」こ
とです。敬虔とは「神を敬う」ことです。「神のことば、すなわち聖書のことばを敬う」ことです。敬
虔とは「神が遣わした方を畏れる」ことです。「神が遣わした方を敬う」ことです。
 信仰生活の中でこれらが問われる実際の場面はひとりひとり違うでしょうが、「求めなさい。
そうすれば与えられます。」とイエスが教えられたとおり、敬虔を求める人には、神が分からせ
てくださるのです。
 私たちが、敬虔の上に立って「ことば、態度、愛、信仰、潔め」にクリスチャンとして召された
その召しに相応しくあることを求め、みことばを読むこと、伝道に励むことを務めるなら、私たち
は自分の進歩を見ることができるにちがいありません。
 
  

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