「同労者」第62号(2004年12月)     聖書の植物に進む  目次に戻る  論説に戻る

Q&Aルーム


 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。送付先は巻末に
あります。

回答例(作成者:野澤)
 R.A.トーレイの「聖書の教え」に整理されている項目を引用して、イエス・キリストの品性につ
いての説明を続けます。

<イエス・キリストの品性> 
6.イエス・キリストの祈り
6.2 イエス・キリストの祈りの時刻(つづき)
(4) イエス・キリストはそのご一生の中で、何か大きな事をなされた後とか、または重要な危機
に臨まれた後には祈りをなされた。
「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひと
りでおられた。」(マタイ14:23)
「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知っ
て、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:15)
 イエスがそういう祈りをされた理由はなんでしょうか?
(イ)ご自身の力を補充するためでした。
キリストの奇跡はキリストご自身にとって、力の消耗であり、身を削るものでした。
(マルコ5:30参照)
(ロ)事故の働きが成就したという高慢心や、満足から来る誘惑にかからないように、祈りによ
って自らを護るためでした。
イエス・キリストは、私たちと同じ誘惑にかかることのある真の人間でした。ですから彼は、私た
ちがそれによって戦わなければならないものと同じ武器、すなわちみことばと祈りとをもって、
それらの誘惑と戦われたのです。
 普通、私たちは、人生における何か大切な事柄の後でよりもその前に祈るものですが、祈り
は事前にも事後にも同様に大切なものです。もし私たちが人生における何か大切な事をなし
終えた後に、祈るということを忘れないならば、たしかに私たちの事業は、より一層大きな成功
を収め得るに至るでしょう。ところが私たちの多くが、そうした事業の成功の後に、自ずと高慢
になるか、または疲労感に捕らわれて、その後の大切な進歩を、事業の上に見ることができな
くなるものです。

(5) イエス・キリストはご自身が食べなさる前に祈られた。
「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ
て、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配っ
た。」(マタイ14:19)
「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。」(ルカ
24:30)
 イエス・キリストは日常普通のごく簡単な事柄に関しても祈られました。キリストの食事に関す
る祈りは、非常に著しいことであったので、弟子たちは、そうした時に主のみ姿を見失うことが
再三ありました(ルカ24:30〜31など)。主は私たちが日常祈りを忘れがちな小さい事柄に関する
ことであっても祈られました。このようにキリストのご一生の日ごとの歩みは祈りによって進めら
れていました。

(6) イエスは非常にご多忙であられた時にも、寂しい所に退いて静かに祈られた。
「しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直
してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」(ルカ5:
15〜16)
 ある人は非常に多忙であって、祈りさえする暇がないといいます。ところがイエスのご生涯
は、忙しければ忙しいほど、一層多くの祈りの時をもたれたことは明らかです。ある時には、彼
は食事をするひまもないほど多忙でした(マルコ3:20)。時としては、休息の時間はおろか寝る暇も
ないほどでした(マルコ6:31、33、46)。けれども彼は常に祈りの時を持つことを怠りませんでした。
いや、彼は忙しければ忙しいほど一層多くの祈りをなされました。
 あのマルチン・ルーテルやアダム・クラーク、そのほかの偉大な神の人たちは、キリストから
この秘訣を学んだ人々でした。しかし世には、ずいぶん多くの大人物が、この大切な秘訣を身
につけなかったために、自らの能力を十分発揮して事業を成就できなかったばかりでなく、事
業のために祈りを押し出されて、祈りから遠ざかったのです。(以下次号)

<今月の質問>
 来月もイエス・キリストの品性について説明を継続します。説明について、疑問点がありまし
たらお知らせ下さい。また、これらを離れた質問も歓迎致します。


聖書の植物に進む   論説に戻る   目次に戻る   トップに戻る