「ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。・・彼らがそこにいる間に、マリヤは月
が満ちて、男子の初子を産んだ。」(ルカ1:1〜7) 父なる神のみこころは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:16)で した。私たちは自分の子供の生涯が短くて、十字架というむごい最後に終わることを知ったら、 その子を産むことすらためらうでしょう。 イエスご自身のみこころは、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためで はなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうため」(ヨハネ6:38)であって、父なる神のみこころ を成就し、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(マタイ20:28)で した。イエスは本当に「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたので す。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の 死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:7〜8) イエスがそのみこころを行うためには、その助けをする人々が必用でした。 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますよう に。」これがマリヤのこころでした。 み使いの夢によるお告げ「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その 胎に宿っているものは聖霊によるのです。 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけ なさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」に、ヨセフは「主の使い に命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」ました。これがヨセフのこころでした。 イエスの誕生の意味を知っている人々がいました。祭司ザカリヤとその妻エリサベツ、バプテ スマのヨハネの両親でした。ザカリヤはヨハネの誕生に、「幼子よ。あなたもまた、いと高き方 の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる 救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみに より、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われら の足を平和の道に導く。」(ルカ1:76〜79)と、イエスとヨハネの働きを預言しました。ハンナがサ ムエルを献げたように、彼らはヨハネを献げました。ここにこのふたりのこころがあります。私 たちのところに福音が届けられるまで次々とそのこころを同じにした人々がいました。私たちも そのこころを受け取って、父なる神のみこころが成就することに加わりたいものです。 |