「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さば
きと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこ れを成し遂げる。」(イザヤ9:7) げられました。そのとき語られたことを、ここにそのまま紹介しようとしているのではありません が、新しい年を迎えるにあたって、私たちが持っていなければならない大切な事柄をこの聖書 箇所は示しているように思います。 ここで神が取り扱っておられる人物は、ダビデです。彼はイスラエルの民を率いて、ペリシテ 人の返してよこした神の契約の箱を、エルサレムに設けた幕屋に移そうとしました。そして彼 は、ペリシテ人の領主たちがしたのと同じ牛車でそれを運ぼうとしました。しかし、律法の規定 では、契約の箱はケハテ族のレビ人が肩に担いで運ばなければなりませんでした。(民数記4: 15) 神はペリシテ人の領主たちが牛車で契約の箱を運ぶことを許容なさいました。しかし、ダビデ にはそれを許されませんでした。それによって、主の熱心が彼の上にあったことが感じられま す。神はダビデが律法を守ることを望まれました。 併せてヘテ人ウリヤのことも考えて見ましょう。なぜ神はウリヤが殺されることを許容なさった のでしょうか。 私たちは、自分に当てはめて考えてみなければなりません。神が誰かをダビデとされ、自分を ウリヤとされたら承知できるでしょうか。ローマ人への手紙9章から11章にはそのことが書か れているのです。 ダビデは教えを受けることの出来る人でした。ウリヤの妻バテシェバの件で、彼が学び得たこ とはよく知られていますが、歴代誌T、15章をみればウザの件でもダビデがこの事件の起き た理由と、背後にある神のみこころを学び得たことは歴然です。 一方教えを受けることが出来なかった人の例には、枚挙のいとまがないほどです。 神は遜って教えを受けることのできる人を喜ばれ、万軍の主の熱心をもって、その生涯を導 いてくださるのです。私たちも教えを受けることの出来るものであるよう心がけるなら、神の熱 心に与ることができます。 ダビデが律法の規定に従って歩む、すなわちみことばが守られることに熱心であられた神は、 「なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらない ことがありましょう。」(マタイ7:11)とのみことばの実現にも、同様に熱心になって下さるのです。 私たちは、自分自身と自分の責任にある者たちが、遜って教えを受けることの出来る者であ るよう努めようではありませんか。 |