「同労者」第63号(2005年1月)              Q&Aルームに進む  目次に戻る 
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信仰良書

− 神 へ の 道  (53) −
         D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 


キリストに受け入れられた礼拝

 そしてもう一つのこと、すなわちキリスト以外にどんな人物もいまだかつて自分を礼拝するこ
とを許したことがない、ということがあります。ご自身を拝する者に対して主は決してとがめたり
はなさいませんでした。ヨハネ9章の38節にキリストに見出された盲人の言動が記されていま
す「『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」。主は彼をおとがめになりませんでし
た。
 さらに黙示録22章6節から9節にはこうあります「御使いはまた私に、『これらのことばは、信
ずべきものであり、真実なのです。』と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御
使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。『見よ。わた
しはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。』これらのことを聞き、ま
た見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足
もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。『やめなさい。私は、あなたや、あな
たの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさ
い。』」。
 ここでは御使いですらヨハネに礼拝されることを許さなかったことを見ることが出来ます。天
の御使いでさえそうなのです。たとえ今ここにガブリエルが神の御前から降りて来たとしても彼
を礼拝することは罪なのです。どんなセラフィムでもケルビムでも、あるいはミカエルでもどんな
御使いのかしらでもそうなのです。
 「神を拝みなさい」もしイエス・キリストが肉において現れられた神でないとしたら、私たちは彼
を礼拝したことによって偶像礼拝の罪を犯していることになります。マタイ8章2節には「する
と、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめるこ
とがおできになります。』」とあります。同じくマタイの15章25節には「しかし、その女は来て、イ
エスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください。』と言った。」とあります。
 他にもまだ多くの聖句がありますが、私たちの主が疑いもなく神であられることを私自身が証
明するために十分なものとしてこれらの聖句を挙げたのです。
 使徒の働き14章にはパウロとバルナバが足なえの人をいやしたことによって、ルステラの異
教徒たちが二人のところに花飾りを持って来ていけにえをささげようとした記事があります。け
れどもその二人の伝道者たちは自分の衣を裂き、そのルステラ人たちに向かって自分たちは
ただの人であり礼拝されるような者でないことを、あたかもそれが大きな罪であるかのように告
げました。ですからもしイエス・キリストがただの人であるなら私たちすべては彼を礼拝すること
によって大きな罪を犯していることになるのです。
 しかしもしキリストが私たちの信じているように神の愛するひとり子であられるなら、主の求め
に従おうではありませんか。主のすべての人への贖いの御業に憩い、生涯主に仕えるために
歩みましょう。

 

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