「同労者」第65号(2005年3月)   聖書の植物に進む  目次に戻る  巻頭言に戻る

論  説

 − 主の受難と復活による信仰 

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。そ
れは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちに
あって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同
じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:4〜5)

 今年は、3月20日から受難週、27日の日曜日がイースターです。受難週とイースターが来
るたびに、イエス・キリストはなんと素晴らしいことをして下さったのだろうと、感動を覚えます。
 表題に信仰ということを取り上げましたが、私たちが「信仰」ということばをどういう意味で使っ
ているかをよく考えてみると、それは決して一様ではなく、いろんな意味であることが分かりま
す。ある場合にはキリスト教という宗教そのものを指して信仰と言います。またある場合には、
神に頼ることを信仰するといいます。また別の時には、何かあることを悟ることを信仰するとい
います。また時には何かあることをそうだと思っていることを信じるすなわち信仰すると言って
います。
 よく「信仰によって救われる」といいますが、それは私たちはイエス・キリストの「贖いによって
救われる」のですが、「私たちがイエス・キリストを信じるとその救いに与ることができる」ことを
意味しています。上述のような他のことを意味する時には、「信仰、信仰する、信じる」と言わず
「キリスト教」と言ったり、「悟る」、「そう思う」などと置き換えてもいいでしょう。しかしこの救いに
与るための信仰は大切で、まさに「信仰する、信じる」と表現しなければなりません。
 神が私たちのために備えてくださった恵は、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスと
つけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)とのみこ
とばに示されているとおり、「私たちを罪から救ってくださる」ことです。私たちが「罪」ということ
を取り上げないなら、「救い」とは関係のないものとなります。私たちの周囲をよく見回して見て
ください。教会やキリスト教関係のホームページ、讃美歌の歌詞にどれだけ罪が取り上げられ
ているでしょうか?
罪はイエス・キリストが十字架に架かっても取り除かなければならない重要な問題であると神
は考えられたのです。バプテスマのヨハネはイエスを紹介してこう言いました。「見よ。世の罪を
取り除く神の子羊。」これを私たちは重視しましょう。
イエスの復活は、その贖いが完成した保証です。復活節にあたり、私たちのためになされた贖
いの業、十字架と復活の故にイエスに感謝しようではありませんか。そしてキリストの復活にも
あずからせていただきましょう。

  

聖書の植物に進む   巻頭言に戻る   目次に戻る   トップに戻る