「同労者」第65号(2005年3月)              Q&Aルームに進む  目次に戻る 
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信仰良書

− 神 へ の 道  (55) −
         D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 


悔い改めでないもの

 悔い改めについてお話しする前に、短く悔い改めではないものについて申し上げましょう。ま
ず悔い改めは「恐れ」ではありません。多くの人々はこの二つを混同しています。彼らは自分
が脅されて怯えていなくてはならないと考えて、何らかの恐れがやって来るのを待っています。
しかし真の悔い改めをしていない多くの人々が驚かされるようになるのです。あなたはひどい
嵐にあった船乗りの話を聞いたことがあるでしょう。もしかすると彼らは普段神頼みなど全くし
ない恐れを知らない人たちかも知れませんが、危険が迫ると急におとなしくなり神に助けを叫
び求め始めます。しかしそれは悔い改めとは言えません。嵐が過ぎ去ってしまうと彼らは以前
と同じように不敬なことを言い出します。
 神がエジプトの王と彼の国に大きな災いをもたらした時、彼が悔い改めたと思われる方がい
るかも知れません。しかしあれは全く悔い改めとは違います。神の御手が取り除かれた途端、
パロの心は以前よりも頑なになったのです。彼は一つの罪も切り捨ててはいませんでした。以
前と同じままの人でした。そこには真の悔い改めは全くありませんでした。
 しばしば、家族の死を経験しているとき、あたかも遺族の皆が回心するために用意された出
来事のように見えます。しかし半年経つ頃には全てが忘れ去られるでしょう。これを読んでおら
れる方々の中にはそのような経験をなさった方もおられるかも知れません。神の御手が彼らの
上に重くのしかかっているときあたかも彼らが悔い改めするのではないかと思われました。し
かしその試練が取り去られると、よく見て御覧なさい、その印象は全て無くなってしまいました。
さらに悔い改めは「感情」でもありません。非常に多くの人々がある種の感情が来るのを待っ
ています。彼らは神を信じたいと思いますが、この感情が来るまではそれが出来ないと思って
います。
 ボルチモアにいた頃、私は毎週日曜日に刑務所で九百人の受刑者を前に説教していまし
た。そこには自分が惨めであることを十分に感じていない人はほとんどいませんでした。彼ら
は感情はたっぷりと持っていました。投獄された最初の一週間か十日は、彼らの多くが一日の
半分を泣き叫んで過ごすのです。しかし釈放されると、彼らの多くはすぐに元の道に戻って行き
ました。真相は、彼らは捕まったことを非常に後悔した、それだけのことです。ですから裁判を
受けている人が非常に感情をあらわにするのを見たことがあるでしょう。しかしその多くは彼ら
が罰を受けるからであって、罪を犯したからでも神の目に悪を行ったことで良心が咎めている
からでもありません。あたかも裁判が真の悔い改めを導いたかのように見えますが、感情はい
つでも消え去って行きます。(つづく)
 

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