「同労者」第67号(2005年5月)      一度は原書を読みたい本へ進む
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ショートコラム ねだ
− 翻 訳 の 話 −

 さて今日は、翻訳について考えよう。はじめから脱線するが、かつて仙台聖泉教会で若者が
ミュージカルをやろう、と言いだした。出演する人数補充のため、当時でももうおじさん群たちで
あった筆者らも一緒にでることになった。自作の脚本を書き、出演者は自分の歌を作詞・作曲
するという課題が課せられた。それでなんとか一曲つくって間に合わせたが、家内に「振り付け
がぜーんぜん様(さま)になっていないわよ。パターンが少なすぎるのよ。」とけなされた。このミ
ュージカル、2回公演しただけで終わったが、プロの世界ではミュージカルもそれなりに人気が
あるらしい。ミュージカル「レ・ミゼラブル」2000回公演に向けて開幕、なんて宣伝されている。
2000回も公演してなお客が入るとはすばらしい。本筋は、ビクトル・ユーゴー作の小説レ・ミゼ
ラブルの翻訳のことである。
明治から大正にかけて活躍した「黒岩涙香(くろいわるいこう)」という作家、翻訳家、ジャーナリ
ストがいた。昔、この涙香訳「噫無情(ああむじょう)」・・ジ・ミゼラブルとふりがなが振ってあっ
た・・という翻訳本が父の書棚にあったので、たしか中学1年くらいのときであったと思うが、引
っ張り出して読んだ。その面白かったこと。漢字の行列のような本であるが、ありがたいことに
全部振り仮名つきであった。主人公の名、ジャン・バルジャンには、そのまま音がじゃん・ばる
じゃんとなるよう当て字が使われていたが、マリウスは守安(もりやす)、コゼットは小雪(こゆ
き)、宿屋の亭主テナルディエは手鳴田(てなるだ)、テナルディエの娘イボンヌは疣子(いぼ
こ)、アゼリヤは痣子(あざこ)などとなっていた。
 名前はともかく、その場面、登場人物の行動や心の動きが生き生きと伝わってくるのである。
ずっと後になって、また何回か文庫本を買って読んでみたが、涙香訳より面白く感じたものは
なかった。それであらめてあの本は名訳だったと思ったのである。
 NHKで英語でシャベラナイトという番組が放送されている。その中で、夏目漱石の「坊っちゃ
ん」のひとこまを翻訳するというのがあった。主人公の「坊っちゃん」が中学校の教師になって、
松山に赴任したとき、下宿先となった「宿の女将(おかみ)に、茶代として5円やった。女将がや
ってきて、畳に額をすりつけた。」というくだりである。これをそのまま英語にしていた。確かに
翻訳としては正解であろうが、聞いていて・・テレビだから見ていてというべきか・・果たしてこれ
が翻訳としては正解だろうか、なぜ宿の女将が畳に額をすりつけたのか分からないだろうと疑
問を感じた。日本人なら、明治と今の差という時代感覚が働いて合点がいくかも知れない。し
かし英語に訳されたこの文を、日本を知らない人々に分かるであろうか。
 当時は、円の下に、1円の100分の1は1銭、1銭の10分の1が1厘(りん)、1厘の10分の
1が1毛(もう)という貨幣が使われていた。今は1円で買えるものなぞないが、1毛でも買える
ものがあったとすると、1毛10円くらいの価値ではあるまいか。そう考えると、当時の1円は今
の10万円くらいである。普通の月給が2〜3円、月給10円貰えば高給取りという時代であっ
たのだから、この推論"当たらずといえども遠からず"のはずである。
 今のお金で言えば、茶代に50万円もやったのだから、宿の女将がありがたがって畳に額を
すりつけたのも無理はないのである。
 さて、私たちが使っている「新改訳聖書」、その翻訳の基本方針は、とにかくことばどおりに訳
すことだそうである。
ドイツ人は、といってもドイツは日本より広い国、特定の地方のことかもしれないが、一日中い
つあっても一回だけグリュスゴットと挨拶するそうである。新改訳聖書の方針よろしく、同じよう
に訳すと「神が(あなたを)祝福されますように」となる。だがそれは、日本人でいえば、おはよ
う、こんにちは、こんばんは、といった軽い挨拶なのだそうだ。神の祝福を祈ってくれたなぞと
考えると誤りというわけである。
 おなじことが実際の聖書の翻訳でもおきるに違いない。その意味合いを読者が取り違える可
能性があるのである。
 前述の貨幣価値の問題も、タラント、デナリ、コドラント、ミナ、・・といった単位が登場するが、
それが今の私たちにとってどのくらいか考えるのは多いに参考になる。
 こんなことを考えるのも、みことばの学びの入り口のひとつではあるまいか。




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