「同労者」第67号(2005年5月)
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信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。送付先は巻末に あります。
回答例(作成者:野澤)
R.A.トーレイの「聖書の教え」に整理されている項目を引用して、イエス・キリストの品性につ
いての説明を続けます。
<イエス・キリストの品性>
6.6 イエス・キリストはどのように祈られたか(つづき)
(7) イエス・キリストは「激しい叫びと涙とをもって」祈られた。
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大
きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」 (ヘブル5:7)
ここに「叫び」と訳してある語は、非常に強い意味を持っている語であって、「叫喚」または「喧
噪」といったような意味が含まれています。それだけでなく、そういう強い意味のことばに、更に 「大いなる」または「強烈な」という意味の形容詞が冠せられているのです。彼は実に、このよう な「激しい叫び」をもって猛烈に祈られてのです。ある人々は崇高な信仰に到達した者は極め て冷静な態度をもって祈り、自らの求めるところを子供のような確信を持って受け取るものであ ると言っています。しかしそういうかれらの批評は、自らの主であるイエスのなされた祈りの態 度を顧みずに下した判断か、そうでなければ彼らは聖霊の熱心という意味を理解していないの だというべきです。場合によっては、彼らの祈りが聖霊からくる静粛ではなく、無関心から来る 静粛であることがありえます。聖霊は「みずから、ことばにあらわせない切なるうめきをもって、 わたしたちのためにとりなしてくださる。」(ローマ8:26)と聖書に書き記されています。「信仰の休 息」と無関心による怠慢とを混同しないように注意してください。しかし祈りにも行いにも大なる 苦闘の経験がにあような信仰の休息状態は、キリスト者らしくないことです。ましてその「うめ き」と「涙」と「叫び」などが偽った気持ちでなされてり、肉的に故意に作り出された表情であった ならば、なおさら劣悪なものであることは言うまでもありません。
(8) イエス・キリストは多くの時間を用いて祈られ、かつしばしば夜を徹して祈られた。
「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」(ルカ6:12)
祈りについての時間的要素は極めて大切なものです。近代は機械技術の進歩によって昔多
くの人がそれをするのに数時間かかったことが、わずか数分でできるという時代になりました が、この祈りの働きによって、事態を急速に進行させることができるということほどの有力な発 明は到底ありえまえん。
(9) イエス・キリストはしつこく祈られた――同じ事を三度も繰り返し祈られた。
「イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。」
(マタイ26:44)
キリストでさえも繰り返し祈られたのですから、私たちが最初に祈り求めたものを受け取るこ
とができなかったからといって、私たちの信仰の弱さを示すものだというべきではありません。
(10) イエス・キリストは祈りをなさるときに、第一に感謝をもって祈られ、第二に信じて祈られ
た。
「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞い
てくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださるこ とを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわた しをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』」(ヨハネ11:41〜42)
この場合の感謝は、未だ成就していないけれども、ただ信仰によってのみが見ることのでき
る祈りへの応答に対するものでした。彼は願い求めるものを与えられると信じました。彼はそう した事については、まだ何の証拠も見せられていないにもかかわらず、御父に祈り求められま した。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、こ
れこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願 ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(ヨハネT5:14〜15)
(以下次号)
<今月の質問>
来月もイエス・キリストの品性について説明を継続します。説明について、疑問点がありまし
たらお知らせ下さい。また、これらを離れた質問も歓迎致します。 |