「同労者」第67号(2005年5月)   聖書研究に進む  目次に戻る  聖書の植物に戻る

論  説

 − いのちのある信仰を 

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて
くるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現わ
れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる
とおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1〜4)

 ことしのペンテコステは、5月15日です。ペンテコステは私たちに聖霊が豊かに与えられる恵
の始まった記念です。皆さんは既にこの恵に与っておられますか。そうである方は、更に豊か
にされるように、まだの方はその恵に与ることができるように、この日を記念したいものです。
 イエスのことばをヨハネはこうかきとめました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは
立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを
信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るよ
うになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
(ヨハネ7:37〜39)
 ここに聖霊を受けた私たちは神殿であって、「私たちが生ける水の川が流れ出るものとされ
る」というすばらしい恵が語られているわけです。
 「聖書が言っているとおりに」とは旧約聖書のどのみことばを指しているのでしょう。神殿から
流れ出るいのちの川について、エゼキエル書のみことばを考えてみましょう。「彼は私を神殿
の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が
東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。・・この川が
流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようにな
る。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのもの
が生きる。」(エゼキエル47:1〜9)イエスのみことばとこれらの箇所のみことばを比較してみると、
霊的には今の私たちにこのみことばが実現し、私たちから流れ出るものによって、それに与る
人々が生きるというのです。
「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21) 「御使いはまた、私
に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通
りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実が
できた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示22:1〜2) 聖霊がおいでになって、霊
的には神の国が私たちのうちに実現します。これは神の国に関する未来の恵みと現在の恵み
の両方を指し示しているのです。
この福音の奥義「あなたがたの中におられるキリスト」に与らせて頂きましょう。
  

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