「同労者」第68号(2005年6月)    
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信仰良書
− 神 へ の 道  (56) −
D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳


(つづき)さらに悔い改めは断食や肉体の苦行ではありません。人は何週間も何ヶ月も或いは
何年もの間断食をしても一つの罪をも悔い改めないかも知れません。また悔い改めは良心の
呵責でもありません。ユダは首をつって死ぬほどひどい良心の呵責に苛まれていました。しか
しそれは悔い改めではありませんでした。私はもし彼が主のところへ行き、ひれ伏して罪を告
白したなら彼は赦されただろうと信じます。しかし代わりに彼は祭司のところへ行き、自らの生
涯を終わらせてしまったのです。人はあらゆる種類の罪滅ぼしをしますが、そこには真の悔い
改めはありません。そのことを心に留めておきなさい。魂の罪のために肉体の努力の所産を
献げても神の求めを満たすことは出来ません。そのような欺瞞を追い払いなさい。 悔い改め
は認罪とも違います。これはある方々には奇妙に聞こえるでしょう。しかしかつて私は夜も眠れ
ないほどの深い認罪の中にある人々を見たことがあります。彼らは一度の食事さえ楽しむこと
が出来ないほどでした。そのような状態で何ヶ月もの間罪の自覚があったにもかかわらず、彼
らは回心しませんでした。真の悔い改めをしなかったのです。認罪と悔い改めを混同してはい
けません。
 祈りもまた悔い改めとは違います。これもまた奇妙に聞こえるかも知れません。多くの人々が
自分の魂の救いが心配になると「祈ろう。そして聖書を読もう」と言います。それが求めた効果
をもたらすと思っています。しかしそうはなりません。非常に多く聖書を読むことも神への懇願
もなされていますが、決して悔い改めはなされないのです。多くの人々が大声で神に叫びます
が、悔い改めはしないのです。
 もう一つのことがらは、悔い改めはある一つの罪を捨て去ることでもないということです。非常
に多くの人々がこの誤りを犯しています。大酒のみだった人が禁酒の誓いを立てて酒を飲む
のをやめることがあります。そのような一つの罪を捨て去ることは悔い改めではありません。一
つの悪行を捨てるということは、木全体が倒れようとしているのに一つの枝を折り取るのに似
ています。不敬虔な人が神を呪うことをやめても、その人が全ての罪を捨て去らないのならそ
れは悔い改めではありません。それは魂に対する神の御業ではないのです。神が働かれる時
は木全体を切り倒されるのです。神は人が全ての罪から離れることを望んでおられます。仮に
私が船で海に出て船底に三、四ヶ所穴が空いているのを見つけたとします。たとえ私が行って
一つを塞いだとしても船はそれでも沈んでしまいます。或いは私が三、四ヶ所重傷を負ったとし
て、そのうちの一つの傷の治療を受けても残りの二、三ヶ所の傷を放って置いたとしたら、私
の命はすぐに途絶えてしまうでしょう。真の悔い改めとは単にこれやあれといった特定の罪を
捨て去ることではありません。
 


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