同労者

キリスト教—信徒の志す—

紙上メッセージ

- 森聖泉キリスト教会「テレホン・メッセージ」98.11.8から -

— 幸いな人とは —

秋山 光雄

 今週は旧約聖書の詩篇第一編のみことばから学びましょう。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」
(詩篇1:1)

 このみことばのなかに、幸いな人とはどんな人の事かが示されています。それと共に幸いな人の避けた道が何であったかを三つずつ三回に分けて示しております。すなわち、
  第一は悪者、罪人、あざける者。
  第二は謀り事、道、座。
  第三は歩まず、立たず、あざけらず。
という指摘です。
 しあわせの物差し、基準は何でしょうか。お金? もちろん大切です。健康? これもまた倖せに欠かせません。平和な家庭? これも得難い恵みです。その他、出来の良い子を持つ親、尊敬できる親を持つ子供。多くの友を持つ人。皆みな倖せの条件ですね。
 しかし良く考えてみると、これらはすべて失われて壊れる可能性を持ったものばかりで、何時、何処で崩れるか分からない、言わば砂上の楼閣のようなものではないでしょうか。人生の夜が来ても、突然の嵐に見舞われても、また友達はもちろん親兄弟から見放されている孤独な闇に襲われても、より頼める隠れ家、お方を持てる人は幸いです。
 聖書は、幸いな人とは、悪者の計り事に歩まない人、罪人と行動を共にしない人、不敬虔な者の仲間に加わらない人。すなわち金儲けや不正直、邪悪を避け、敬虔な心を持って天地の創造者である神を見上げる人であると示しています。今の時代そんなことは馬鹿げた夢でしょうか。しかし、聖書は言います。「たとえ全世界の人が偽り者であったとしても神こそは真実なお方である。」と。
 人の定める価値観、幸福観は時代と共に、時には教育と共に変わって行く運命にあります。年輩の方々は戦前と戦後の価値観の大転換をご存じです。洋の東西でも、真理を柱とする宗教界でも何と、その幸福観は違うでしょうか。しかし「人はみな草のようで、その栄えはみな草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることがない。」と聖書は宣言しております。

(森聖泉キリスト教会牧師)