同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1996.8.27に続く補遺 から

ローマ人への手紙(第4回)

野澤 睦雄

 「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」
(ローマ6:19)

2.3救いの教理に関する考察
 これまで述べてきたことの再述になりますが、以下の項目についてもう一度考察を加えておきましょう。
  • 罪の定義
  • 贖いについて
  • 全的堕落と救いの問題
  • 救いを得る信仰とは何か
  • 悔い改めの実について

  1. 罪の定義
     罪とは何であるかという問いに対して、ジョン・ウェスレーは次のように定義しています。「罪とは知られている律法に対する意志的違反である。」
     罪は神の命令に違反する「行為」です。「イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『もう罪を犯してはなりません。…』」(ヨハネ5:14) と命令されるように、罪は「行い」です。罪の性質や品性、性格、気質などの領域の事柄は、「行い」ではありません。これによって、罪と罪の性質を見分けることができます。もちろん、良い品性、性格、気質なども行いではありません。
     罪には、聖書に記されている「キリストの律法」(コリントⅠ9:21)への違反と「神が各人に示される命令」への違反の二種類があります。
     誘惑と罪の境界線は、「意志決定」にあります。体が実行していなくても、心の中でキリストの律法に反する行為を行う意志決定をすると罪になります。「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したです。」(マタイ5:28)とはそのことをいうのです。この原則はすべての罪に当てはまります。これは誘惑か罪かというきわどい場面にあって、自分の心をよく観察し、この原則すなわち自分が意志決定をしたか否かをみれば、罪を犯したのであるか誘惑であるのか見分けることができます。
     過失は意志決定がされていない、キリストの律法への違反です。それは、人間の不完全性からくるものです。当面する事柄に対する知識の不足のために誤った判断を下し、誤った行為を行うことや、キリストの律法に違反すると知らないでそれを行っていることなどがそれです。
  2. 贖いについて
     「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスをその血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。…」(ローマ3:23~25)
     「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」(エペソ1:7)
     「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血の注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)
     「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネⅠ1:7)
     イエス・キリストの十字架の死が、私たちが罪の赦し、罪性の潔めを与えられる根拠です。このことについては多くを論ずる必要はないでしょう。
  3. 全的堕落と救いの問題
     「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩篇14:2~3)
     生まれつきの人は完全に堕落している、神の前に善きことを願うことはないと信じられています。ではどうして救いに与る人がでてくるのでしょうか。
     カルビン主義者は、"神の一方的選びで特定の人のみが救われる"といいます。しかし、"信仰によって救われる"のですから「信じる」ことは善いことであって、その人は、救われる前に善きことを行っていることになります。
     神の一方的選びで特定の人のみが救われるとすることは、「すべてかれ(イエス)を信じる者は、永遠のいのち(救い)を得る」(ヨハネ3:16)との聖言に反します。
     この問題は後で論じますが、私たちは、救われる前にも聖霊が助けて下さると信じています。
    それを神と和らぐ以前の恵みですから、「先行恩寵」と呼んでいます。
  4. 救いを得る信仰とは何か
     「これを見たシモン・ペテロは言った。『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い者ですから。』」(ルカ5:8)、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使途16:30)これは、ペテロとピリピの牢獄の看守の認罪の言葉です。救いの入り口は認罪です。"
    私はどのような罪を犯したのか。"ということを明確に自覚する必要があります。私達は罪から救われるのであって、罪を把握することなしに救われることはありません。自分の罪は何であるのか、よく自分を観察しそれを把握することが大切です。そのため、パウロは手紙のはじめに長文をもって(ローマ1:18~3:20)解説しました。
     認罪の次に信仰が問われます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16:31) 信仰は、"信じなさい。"と命令形で述べられていることからわかるように、罪と同様に、「行い」なのです。つまり意志決定をともなうものです。
     "「行いによって」ではなく「信仰によって」救われる。"と、しばしば言われています。そしてあたかも信仰は行いではないかのように考えられ勝ちです。ローマ人への手紙にパウロが書いている以下の説明をよく読んでみると、パウロは、そうは言っていないことが分かります。「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21~22)「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28)パウロがここで言っている「行い」は「旧約の律法を行うこと」です。そして「律法の行い」と「信仰」を同列に並べていますから、信仰も「行い」であることは明かです。
     信仰には"意志"の働きがともないます。それは、救われるときもそうですし、救われた後、信仰に生きていくときの様々の問題に対する信仰も同様です。救いを得る信仰とは、イエス・キリストが十字架上で、私の罪の贖いをされたと信じることです。
     私たちの祈りが、「主よ。どうか、信じさせて下さい。」ではなく、「主よ。信じます。」でありますように。
  5. 悔い改めの実について
     「自分の罪を告白して」(マタイ3:6)悔い改めることは、嫌なことです。しかし、それを実行すると、 不思議なように、イエス・キリストの赦しを信じることができます。「口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめくださいます。」(ヨハネⅠ1:9)と書かれているとおりです。
     悔い改めた人、すなわち、救われて罪の赦しと新生の恵みに与った人は、「悔改めにふさわしい実を結ぶ」(マタイ3:8)ことが要求されます。後の章で学ぶことですが、結実(聖霊の実を結ぶ)とは、「行い」です。私たちは、悔い改める以前には、きっと他の人に謝罪しなければならないような事をしているものです。悔い改めた人の最初にしなければならないこと、「悔改めの実を結ぶ」ことは、その一点にかかっています。
    悔改めの実は、神に対してではなく、人に対して行うことの中にあります。
     この悔改めの実を結ぶか否かは大変厳粛で、「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ3:10)と書かれているように、信仰生活を続ける、あるいは良き建て上げができるか否かがそれにかかっています。
 
(仙台聖泉キリスト教会員)