同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてくると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。

質問の送付先は
仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで
TEL:022-266-8773
FAX:022-266-8773(TELと同じ)

 前月の質問に対して皆さんお考え頂けましたでしょうか。今回も回答を載せてみますので、自分の答えと比較してみてください。この種の問題は説明のしかたは多種多様ですから、回答例と思って下さい。ただし、その本質の把握と、その点に関する言及はされなければなりません。
筆記形式また意見あるいは疑問・反論などがありましたらお寄せ下さい。また、もっと日常の問題、日常的な信仰問題のあり方などについてのご質問ご意見を寄せていただければ幸いです。

前号の質問に対する回答
  1. 上記(2号/1999年11月のQ&A)、5.にある「全的堕落」とは何ですか。?
     (回答)
    全的堕落とは、生まれたまま、つまりキリストの救いに与っていない人々は、"善なるものを持っていない"ということを指しています。
     その意味合いに対する解釈がまちまちです。
     強硬な意見を持つカルビン主義者たちは、その内容を「死体」に例えます。「人間は霊的に死んだものである。死体は、義であること、愛であること、善きことについて、感じることも、考えることも、判断することも、決心することもできない。」とします。この定義の問題点は、「人間は、霊的には死体である。だから神が彼を救われるまで、彼は何もできない。善悪を判断することも、救いを求めることも、キリストを信じる決心をすることも。信ずることもできない。」という結論を導き出す点にあります。
     聖書が示している、人間像はそのようなものではありません。堕落後のアダムもエバも神と語りました。カインも神と語りました。ヨブ記にはサタンも神と語っている記事がでています。
     つまり、「全的堕落というものは、人間が罪に生きていること、人間の行動の動機が利己心だけであることを指している。」と考えるべきです。
     神は人間に、キリストの救いを準備し、「信じなさい。そうすれば救われます。」と言われています。全的堕落した人間がどうして救いに与ることができるのか。それは、「聖霊の"先行恩寵"によって、信ずることができる。」とするのが、私たちアルミニアン・ウェスレアンの信仰です。
  2. 聖書にいう、「罪」とは何ですか?
    (回答)
    罪に関するジョン・ウェスレーの定義を引用して回答とします。「罪とは知られている律法に対する意志的違反である。」知らないで行ったこと、意志しないで行ったことは「過失」です。もし行ったら罪であることも、人が考えている段階では「誘惑」です。実行しなくても、意志決定すると「罪」です。
    「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31~32)つまり罪からの救いがキリストの救いであって、罪の問題を避けてはキリスト教も、教会も意味がありません。
     私たち救いに与っている信者は、絶えずサタンの誘惑にさらされていますが、その中を頭をあげて歩むために、これらの違いをよく理解しておくことが大切です。自らの"心をよく見守って"信仰のよき戦いを戦っていきましょう。
     この項目については、本号の聖書研究「ローマ人への手紙(4)」を参照して下さい。
質問
  1. キリスト教の書物や説教などによく出てくることばに「認罪」という一語があります。この「認罪」とはどういうことか説明して下さい。
  2. 前号の質問1.の回答にある、「先行恩寵」とは何ですか。その意味合いをもうすこし詳しく説明して下さい。