同労者

キリスト教—信徒の志す—

証詞

1999.12.12 仙台聖泉キリスト教会にて
— 仙台聖泉キリスト教会 山田 大 兄 —

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリントⅡ5:17)

 私はぼんやりしている方で、ついつい証詞をしないでしまっていました。 どうしてかなと思いますと、私の救いの記念日は12月4日なのですが、12月は年末感謝会があるため毎月の証詞のときが無く、証詞のチャンスがないことに気づきました。ですから、今年は是非にと思い立ちました。
 私が救われましたのは、1983年12月4日です。
 幼い時から両親に連れられて教会にいっていました。小学校6年生の時、先生と話し合い、うそをつくことが私の罪だと思って、お祈りし洗礼を受けました。
 17歳の時、両親の前で悔改めの時を持ちました。そのとき、両親から私が献身することが両親の望んでいることだと言われました。そして、両親の祈りを聞かされ、押し出されて献身の決心をしました。
 大学生のとき家出をして両親の元を離れたことがありました。しかし、それでも自分はいつの日か神様の御用をすると思っていました。
 大学4年の春に、山本嘉納先生の救いのお証詞を聞き、私には真の救いの経験がないことに気づかされました。先生に祈って貰うために、先生の所に行きましたが、自分の罪のあまりの大きさに、全てを言い表すことはできずに帰ってきてしまいました。
 それ以来、罪を言い表さないで済む方法は無いか模索しました。そして結局自分の宗教を造ってしまいました。死の問題、人生観などこうだああだと考えました。しかし、そこには絶対的に足りないものを感じました。それは、神なる方がいないのです。どうしても、救って下さる神が必要でした。
 救われるためには、罪を告白しなければなりません。そこに葛藤がありました。
 私は神が命じておられる悔改めが出来ないので葛藤していたのでしたが、もう一度神を求めるようになりました。そして神様がおっしゃる道を生きてみようと思いました。それまで"心ここにあらず"といった感じで教会にいましたが、神様を求め始めたとき、神はすぐに答えて下さいました。山本先生の説教に"「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは教会のことです。」(コロサイ1:24)が引用されて、あなたは教会の荷を担う者になるのか、それともあなた自身が重荷となり続けるのか?"とありました。それを聞いて、17才の時以来の献身の決意が強く私をとらえ、私は教会の荷を担う者にならなければならないと思いました。そしてそのとき、神にお会いする経験をしました。神の道に従うことを拒んでいた者なのに、神は近寄って下さり、鮮やかに御自身を現して下さいました。トマスのように、傷跡に触ってみなければ信じないとがんばっていた者でしたが、主は傷跡を私に見せて下さったように感じました。私は、「主よ。ありがとうございます。私はあなたを信じます!」と申し上げました。
 私はその後、先生をたずね、すべての罪を告白して神に祈ることをしました。
 神は私を受け入れて下さいました。
 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20:26) 神は、私がへりくだることが一番の恵みであることを教えて下さいました。神はご自身の子供であるが故に私に困難を通らさせなさるのであることを教えて下さいました。それを通して、神が私を愛していて下さることを知りました。
 直接の御用は降りさせて頂きましたが、神の教会を愛し、教会の荷を担う者であり続けさせて頂たいと願っています。

(仙台聖泉キリスト教会員)