同労者

キリスト教—信徒の志す—

読者の広場 <聖書を読む>

— 現代仮名遣いで読む文語訳「放蕩息子」 —

山田 義

 文語訳聖書は、聖泉連合の多くの教会でも1970年ごろまで使われていました。明治元訳聖書と大正改訳聖書があり、その1887年の元訳聖書の新約の部分が1917年に『改訳 新約聖書』となって、教会外の人々にも読まれ文学にも影響を与えました。
 ルカ伝福音書から放蕩息子の箇所を現代仮名遣いに直し、句読点、改行を工夫し、初めての人でも声に出して読めるようにしてみました。
<>は追加、( )は読みがなです。          

(中京聖泉キリスト教会員)

 また、<イエス>言たもう、
 『ある人に二人の息子あり。
 弟、父に言う、
 「父よ、財産のうち我が受くべき分を我にあたえよ。」
 父その身代しんだいを二人に分け与う。
 幾日いくひもへぬに、弟おのが物をことごとく集めて、遠国えんごくに行き、そこにて放蕩にその財産を散らせり。
 ことごとく費したるのち、その国に大いなる飢饉おこり、みずから乏しくなり始めたれば、往きてその地のある人によりすがりしに、その人、彼をはたに遣わして豚を飼わしむ。彼、豚の食らう蝗豆いなごまめにて、おのが腹を充たさんと思うほどなれど、何をも与うる人なかりき。
 このとき我に返りて言う、
 『わが父のもとには、食物余れる雇いびといくばくぞや、しかるに我は飢えてこのところに死なんとす。立ちてわが父に行き、「父よ、我は天に対し、また汝の前に罪を犯したり。今より汝の子と称えらるるにふさわしからず、雇いびとの一人のごとくなしたまえ』と言わん。」
 すなわち立ちてその父のもとに往く。なお遠く隔りたるに、父これを見てあわれみ、走りゆき、そのくびいだきて接吻くちつけせり。
 子、父に言う、
 「父よ、我は天に対しまた汝の前に罪を犯したり。今より汝の子と称えらるるにふさわしからず。」
 されど父、しもべどもに言う、
「とくとく最上の衣を持ち来たりてこれに着せ、その手に指輪をはめ、その足に靴をはかせよ。また肥えたるこうしききたりてほふれ、我ら食して楽しまん。この我が子、死にてまた生き、失せてまた得られたり。」
 かくて彼ら楽しみ始む。
 しかるにその兄、畑にありしが、帰りて家に近づきたるとき、音楽なりもの舞踏おどりとの音を聞き、僕の一人を呼びてその何事なるかを問う。
答えて言う、
 「汝の兄弟、帰りたり、そのつつがなきを迎えたれば、汝の父、肥えたる犢を屠れるなり。」
 兄、怒りて内にることを好まざりしかば、父い出て勧めしに、答えて父に言う、
 「見よ、我は幾歳いくとせも、汝に仕えて、いまだ汝の命令に背きしことなきに、我には小山羊こやぎ一匹だに与えて友と楽しましめしことなし。しかるに遊女あそびめらとともに、汝の身代を食らい尽くしたるこの汝の子、帰り来たれば、これがために肥えたる犢を屠れり。」
 父言う、「子よ、汝は常に我とともにあり、わが物は皆汝の物なり。されどこの汝の兄弟は死にてまた生き、失せてまた得られたれば、我らの楽しみ喜ぶは当然なり。」』

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