同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖潔を求める方々へのすすめ —

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。
聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル 12:14)

 きよめ派の皆さんと聖潔の問題を少し論じたいと思います。既にそれを得、それに歩んでいる方々には、自分が受けているものの理解の助けとなり、まだ得ていないが求めている方々にはどのような方向に自分の求めを進めたらよいかをお知らせするためです。
 日本語の意味からは「聖化、きよめ」をこの経験の入口のこと、既に入口を通ってその状態にあることに「聖潔」を使うのが相応しいと思いますが、聖潔、聖化、きよめなどのことばが区別されずに同一の経験を指して使われていますので著書に触れるとき、著者の意図するところをくみ取るとよいでしょう。
 これは「瞬時の経験」と「継続的(漸進的)経験」とがあるとされます。これについて理解しておかなければなければならないことは、聖潔は100あるもののうち50を瞬時に与えられ、残りの50を日々の歩みの中で与えられるようなものではないことです。瞬時の経験と日々の経験には質の差がある、つまり別のことなのです。
 それは「救われること」と「円熟したキリスト者になること」の差に似ています。
人生の様々な困難に導かれて、キリストを求めるようになり、神の前に罪を犯した自分であることを見いだし、十字架の贖いを信じると、義認と新生の恵みに与ります。これが「救われること」つまり瞬時の経験です。それから、キリスト者として教会の中で生きていくと、キリスト者としてのものの見方、価値観、その生活のあり方、教会での働きなどが少しずつ身について時が経つとキリスト者に相応しいものとなります。これが継続的な経験です。
 救いの場合と同様に、救われた後、救われたにも拘わらず自分の内に罪の性質があること、悪に傾く自分を発見して悩むとき、聖潔というものがあることを教えられ、それを得たいと探求をはじめることでしょう。つまり潔めの求道者になるのです。
「神のご命令に服従して生きるのです」と教えられ努力しますが、自分の心をよく見守ることのできる人は、自分はこの世の楽しみに惹かれていること、渋々神のご命令に従ってかろうじて罪を犯さずにいることを発見するでしょう。その段階では「奴隷の服従」しかできないのです。
 熱心に潔めに対する求道を続けるならば、必ず神が「あなたの問題はこれだ!」と示してくださる時がやってきます。その内容はひとりひとり違いますが、多くの場合、それは不従順であった自分を見いだし、神に「お従いします」ということを伴います。
それは、「心からの服従」となり、「愛する父に対する子としての服従」、「愛する夫に対する妻の服従」をする、はじめての経験となるでしょう。もはや奴隷でなく、子であり妻であるでしょう。その時神は、私たちを永くその状態に生きることのできるものと変えてくださいます。これが「聖化、きよめ」の瞬時の経験です。
 この聖化の瞬時の経験で与えられるものは、まず全く従って生きることのできる心です。不服従であったものが従順とされることで、それは救われるときの義認に似ているでしょう。そしてもう一つ、聖霊に満たされることが伴います。この段階で聖霊は聖、義、愛という神のご性質を持って私たちの心に住んでくださいますが、それはまだ外に、つまり生活には顕れていません。救われた時、新生のいのちはあたえられていますが、どう生きたらキリスト者に相応しいのかは、実際の生活のなかで教えられつつ身に付いていくのと似ています。
 服従して生きるとは以下のことに他なりません。それは、私たちの日々の生活のなかでのできごとに、寛容が必要であったり、親切が必要であったり、人の栄えや得たもの見てねたまずにいることが必要であったり、自分の得ているものを自慢せずにいる、高慢にならずにいること、礼儀に反せずにいること、自分の利益に走らずにいること、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます、とコリント人への手紙にパウロが書いたその一つひとつが必要な場面を神が置かれて、それを潔められたキリスト者に相応しく対処することです。これは、「子としての従順」「妻としての従順」であって、「奴隷の従順」とは質を異にします。そのなかで、聖霊がお与えになったキリストに似たものとしての性質が顕されるのです。奴隷の従順は「不自由」ですが、子としての従順に生きる時、人は「自由」を感じます。そして「キリストの平和」が心を支配します。もし皆さんのうちのどなたかが、自分は瞬時の経験をしたことがないが、神のみ旨に心から従うことができる、罪から解放された心で生きている、自由を感じ、キリストの平和が確かに心にあると感じておられるなら、それは気づかないうちにその経験をされたのです。
 聖化の瞬時の経験は質の変化をもたらしますが、聖潔における継続的経験は量の増加をもたらします。
 皆さんは、これらを念頭に置いて、「潔めの道」を進まれますように。

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
(エペソ 3:14-19)

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