同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

じっくり聞くこと、行うこと

石井 和幸

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを聞いて実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」
( ヤコブ 1:21 - 22)

 私たちの家庭にて、三世代同居が始まって一ヵ月が経ちました。2歳の娘が最近マイブームにしているのは、 「ままごと」です。 「はい、これおじいちゃんの」 「はい、これおばあちゃんの、どうぞ。おいしいでしょ?」 料理を作る真似をして、みんなに振る舞いをします。 その言葉使いや行動は、本当に家庭内をよく見ているな・・・と思わされます。彼女は2歳なりに、じっくり観察し、じっくり聞いて、自らの生活に結びつけようとしています。
 私が最近、特に気をつけているのは、正しく事を行うためにまず「じっくり聞くこと」です。簡単なようで、とても骨が折れる作業であり、私が若いときから苦手にしていることの一つです。 先入観やさまざまな情報によって、視点がいくらでも左右されますし、聞いたことを自分の都合のいいように細工してしまっていることもあります。 私は特にせっかちなところがあり、相手が本意をちゃんと伝える前に、自分が理解したつもりで話が中途半端なまま、 シャットダウンしてしまうこともありました。「話し上手は聞き上手」とよく言われますが、相手に自分の指示や意向がちゃんと伝わっているか・・・ということは常に自らに突きつけられる課題です。それは同時に、自らがじっくり、しっかり相手の話を聞いているか?という課題にもなっています。 「じっくり聞く」作業のあとに、「聞いたことを整理する」取り組みがあります。このことはいったいどういうことなのだろうか? 静まって、思い巡らし、時には祈りつつ分析を行います。瞬時に判断し、手を打たなければならないこともあります。しかし、そういう場合でも、「まず、一息おいて」行動するように心がけたいと思っています。
 若いときは分析すること、今の自分と向き合うことを嫌がって問題を棚上げにすることをよくしました。分析しても、ことごとく的外れだったりしました。今も忍耐強く接してくださる牧師、伝道師の先生には本当に感謝しています。教会の礼拝や諸集会で語られるメッセージはまさに「じっくり聞く」対象です。メッセージでなされる聖書講解の内容を理解することも大切なのですが、「神の視点、メッセンジャー(牧師)の視点はどこにあるのか?自分の視点はそれに合致しているか?的外れになっていないだろうか?」と擦り合わせをしながら聞いています。
 私たちの教会では、「聖書を学ぶ会」という集会が月一回もたれていますが、そこでは聖書を読み、メッセージを伺った後に、牧師と直接問答が出来ます。先生は、質問した内容に答えるだけではなく、教会の課題、質問した人自身のことを考慮しながら答えて下さいます。また、諸集会とは別に個人的に牧師に相談をするときもあります。家庭集会を開き先生方をお招きするときもあります。そのようにして、じっくり聞いたメッセージが、自らの生活とどう結びつくのかを確認し、是正していく取り組みをさせていただけることを大変感謝しています。尚これからもこの取り組みを大切にしていきたく思っております。
 私の娘は、夜寝る前お祈りをします。「かみさま、きょうも守ってくださってありがとございます。きょうは、おじいちゃん、おばあちゃん、おやつ、おとうふ、ありがとございます」・・・小さな娘の心にじっくりと映しだされた一日が感謝となる瞬間です。 先日、おばあさん(私の母)と娘がデパートのキッズコーナーへ行きました。そこには大きな電車のおもちゃがおいてありました。そこに娘は、積み木をひとつずつ入れながら「おじいちゃん乗って、まみちゃん、おばあちゃん乗って、とと、おかあさん、じんこせんせい乗って・・・」と言ったそうです。彼女は自分とじっくり向き合ってくれて、愛してくれる人を電車に入れていったのです。家族や教会の先生が娘とじっくり取り組んで下さったことを娘が受けとめていることを知り、とても感謝に思いました。 みことば、神からのメーセージをじっくり聞くこと、そして実行すること。それは、愛する小さな魂のためにです。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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