同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書講義

— 昨日のサムエル記 —

山本 嘉納

 夏、殷、周、春秋、戦国、秦・・・、大学受験のために覚えた「中国の歴史4000年」の一部である。当時、毎日のように口ずさんでいたので20年たった今も自然に出てくる。天皇の名前を覚えさせられた時代の話を聞いたことがあるが、自分が生を受けた時代に感謝した。何かの役に立ちはしないかと考えたが、今時「おじいちゃんは、天皇陛下の名前全部最初から言えるんだぞ。」と聞いて「すごいなー」という孫たちはいないだろう。しかし、聖書に出てくるイスラエルの王様の名前、「サウル王からダビデ、ソロモン、南北王朝に分かれて北王朝はヤラベアム・・・。」と始めれば、おじいちゃんは天才だねと最高の賛辞を受けること請け合いである。私も神学校で必死になって覚えたが、聖書なし、準備なしに講壇に立って説教することはほとんどないので、その必要性を感じない。話は最初から目的と違う方へ一人歩きし始めてしまったが、聖書に登場する王、特にサムエル記に登場する王に大いなる興味を引かれている。今日の私たちも、多かれ少なかれ責任を預かって生きている。年商何億という企業を任されている方もおられるだろう。家族5人が健康で明るく生活が出来るために務めている方も。全ての者が神より与えられた現場においてふさわしくあるべきことを期待されている。聖書は、その責任の中での信仰者の生き様を現しながら、その歩みが正しくなされているかどうかを私たちに問い掛けている。そういう意味で今から3000年以上も前の、中国では殷王朝が滅ぼされ周王朝に変わるころ、日本はまだ縄文時代の中期である。そんな大昔の事柄を昨日あった出来事のように考えることを試みたいと考えている。
 自分の子供のことを、本気で出来が悪いと思っている母親は少ない。お兄ちゃんお姉ちゃん、もしくは弟妹と比べて少し足らないかしらがせいぜいで、それも時間がたてば取り返すことが出来ると考えている。比較が好きな時代であるから、隣の子供を借りてきて20項目ぐらいリストアップして検討しても、良い所もあれば悪い所もある位なものである。だいたい「カエルの子は、カエル。」「鳶は鷹を生まない。」であるから、冷静に考えてみれば自分と同じ位の出来と信じればいいものである。それにもかかわらず、昨今の親御さん達は、何とか特別の教育を施せばスペシャルな人間に変身すると本気で思い込むせいか、違った意味でのスペシャルな人格が登場している。サムエル記を開いて読み進んでみると時代は違っても同じことが繰り広げられ
ていることを感じる。サムエル記の最初は、預言者サムエルがどのように誕生したかが記されている。教会学校で少年サムエルが(3:3)神の箱の安置されている主の宮で寝ていた時、イスラエルの神、主の声を聞いたお話をよくしてもらった。私も長年と言うか生まれた時から教会を我が家としているものにとって、このお話はただ事ではない。特に前の教会堂は、自宅と会堂のトイレが一緒で、夜どうしても行きたくなれば仕方なく出掛けて行くのである。もし、これといって思い当たることがなければ良いのだが、母親の財布から数千円か失敬した日の夜などは、絶対に会堂の方は見ないで出来るだけ短時間で済ませベッドに駆け戻ったことを思い出す。本当に出来の悪い牧師の子であった。少し成長して、その時、少年サムエルに語られた神の預言が神に仕える祭司の子供の不遜と不敬虔の罪であることを知った時は、私自身大いなる恐れを持ったものである。神の忍耐とキリストの贖いの血潮が豊かに、この罪深い者に注がれていたことを感謝した。
 自分の子供が出来がいいと錯覚していたとは思えない。イスラエルを治める士師として祭司としてエリは、イスラエルを裁いた人物である。士師としての仕事が忙しくて子供をしつける時間がなかったのだろうか。当時イスラエルにどれだけの人間がいたかは判らないが、毎日すべての訴訟や相談が彼だけのもとにもたらされたとは思えない。すでにそれなりの組織が出来上がっていて、村長や町長では治まらない問題を士師エリの所へ持って来たと思われる。ではどうしてだろうか。妻の記録は聖書に載っていないが、彼女の子供への偏愛に夫であるエリが口出しできなかったのだろうか。そうであったとしても彼がその責任から除外される理由にはならないのは当然である。唯一考えられることは、彼の年寄り子であった可能性である。私の父は、私に多くの時間と労力を注ぎ込んで愛ししつけてくれた。しかし、7歳違う弟には、多くの場合、私と違ったあり方を起こってくる問題に対して現していた。ルカの福音書の放蕩息子のたとえではないが、兄として父親の特別扱いのような弟へのあり方に嫉妬したものである。しかし、ある時、母に父が話していた言葉として聞いた。「自らの若い力と与えられた時間は、大いにあなたに注ぎ込んだ。弟に足らない分は、兄であるあなたから分けてあげてくれ。それが必要になるときが必ず来るから。」それを聞いた時、私の心に起こったものは兄としての優越感ではなく、子供に対する親の責任の重さのどれ程かであった。
 エリは、自分の息子に果たせなかった願いをサムエルに期待し、そのために自らいさぎよくその非を認め果てていった姿は、長年その責任を果たし続けた聖徒のそれであった。どうにもならない現実に全てを失ってもよいと自暴自棄になってしまう弱い私たちである。その状況は、自分がその問題の元凶であるにもかかわらず、(自らも自の中でそれを認めつつ)あたかもその問題の被害者かのように位置付けて自分を赦そうとするのである。被害者意識というのは恐ろしいものである。もしこの時、エリが自暴自棄になって、神の声を聞き自らに対する預言を余すところ無く語った少年サムエルに向かって行ったならひとたまりもなく潰されたことであろう。しかし、『エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」(8:13)』と。裁き司として立ち続けたもののみが知り得る神の慈愛深い裁きの手に進んで陥ったのであった。
 なぜ、の問いは続けられていく。特にサムエル記は、それを読者に突き付け続けていく。しっかり腰を据えて読まないとどっかに飛んでいってしまいそうである。自分を探らされる部分は特に難解に思えてくるし、安易な解釈を期待するものである。厳しい日常の責任の中に、ノルマに追われながらの経済戦争に勝ち抜いているみなさんであるならば、聖書に登場する者たちが、その責任を果たし続ける姿を自分とダブらせて読み進めることは決して出来ないことではないと思う。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)