同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 信徒会(仮称)に期待するもの —

「…キリスト・イエスの使徒となったパウロから、愛する子テモテへ。…福音のために私と苦しみをともにして下さい。」
(テモテⅡ 1:1、2、8)

 私たちの信仰生活の場である聖泉連合において、どのようにして信仰の活性化を図って行くべきかが問われました。そのひとつの試みが、連合総会における6部会の導入により、連合の活動に対する信徒の参加の道を開くことの中になされています。
 信徒会(仮称)も、その一部であって、規約案などその準備が進められていますが、何を信徒会(仮称)に期待し、どのようにそれに参加していくべきかを考える必要があります。
 連合総会の信徒部会のメンバー間で論じられたことは、"私たちは主の働き人たちの「同労者」を目指す。"ことを目的として本会を運営しようということでした。それで、機関誌名も「同労者」とすることにしました。
 同労者は、各教会の働き人たちとその労苦を分かつものであり、またその教会の如何に対する共同の責任者です。ですから私たちは、教会の中に生じる不具合な事項に対し、その改善のための労を一緒に担う者となることを目指すものとなっていかなければなりません。
 勉学でも、スポーツでも、楽器の演奏でも、書道やお花などの習い事でも、自分が上達したと思うとそれが面白く感じられますが、それが止まってしまい上達しないと感じると面白くなくなります。同様に、自らの信仰に進歩をみることこそ、私たちが信仰に情熱を傾け続けることのできる唯一の条件です。
 何かに上達する条件は、よく考えて訓練を積むことです。野球で言うならば、バッティングや投球、球の処理、盗塁、などなど様々なことがありますが、それらの一つ一つについて、うまい人のプレーをよく観察し、自分の動作と比較し、同じように出来るように練習すると、練習しない人、考えて練習しない人に比べ上達が早いのです。
 信仰も様々な場面、様々な要素があり、全部のことにすぐれている人なぞあろう筈がありません。ですから、自らの不得手な面、足りない面に対し、すぐれたものを現す兄弟達を観察し、自らの信仰を向上させる訓練をすべきです。
 私たちは、交わりの場を持たないと、なにかにすぐれた兄弟達を観察する機会がありません。信徒会(仮称)を、その場を提供する場として育てていく必要があります。
 主にある兄弟姉妹達の積極的な参加を願うものであります。