同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 先生!もっと長い説教をして下さい! —

 最近、どうも説教は短い方がよいという風潮が広がっているように感じられる。しかし、立ち止まってもう一度よく考えるべきである。
 このような事に関しては、世の中の事実に学んでも害はあるまいと思われる。
 まず、学校のことを例に挙げてみよう。幼稚園ではどのくらいの授業をするのか?幼稚園では30分が単位時間である。実際に幼稚園の先生が、子供達を引きつけておけるのは、15分ぐらいだそうである。これが小学校に入ると、45分が授業の単位である。やはり30分位が実際の学びの時間であると聞く。中学校では50分が授業単位となる。そして40分くらいが実質の授業である。高校では、60分が授業の単位時間となり、50分位が実質授業である。大学では、90分から100分位を授業の単位時間としている。先生によってばらつきはあるのだろうが、その時間はぎっしり講義があるのが常であった。
 これらは何を意味するか。その一つは、聞く側の年齢からくる受容能力に合わせて、時間が変えられていることである。その二つ目は、あるまとまった内容を教えようとしたら、90分から100分程度の時間を要するということである。
 学校の先生達も、生徒の関心を授業に引きつけておくために、様々な工夫をしている。中には、同じ箇所の授業の時、同じダジャレを10年も言う先生もいるらしかったが。数学の授業で、虚数が出てくると「君たちはアイを知らんな。」などと。
 長い時間の授業を聴いていることは、訓練である。若いときには、学校のような場で、訓練はむこうからやってきた。そしてそこに入っているといつの間にかそれが身について、同じように出来るようになった。
 立ち返って、説教はいかに?
 長い説教は、説教者にも聴衆にも努力を強いる。説教者には、聴衆を説教に引きつけておく努力である。聴衆には、説教に関心を向けている努力であり、目を覚ましている努力である。その努力が訓練である。
 もし、聴衆のほとんどがいつも眠るようであったら、その説教者は工夫をすべきである。いつも眠ってしまう人は、せめて礼拝の前の日くらいは早く床に着くとか、出かける前に濃いお茶でも飲んでおくべきである。そして何よりも、この先生は何を言っているのかと、説教中に考えているべきである。
 まとめましょう。
  「先生!もっと長い説教をしてください。さもないと、あなたの聴衆は、ぜーんぶ、幼稚園児になってしまいますよ!」