同労者

キリスト教—信徒の志す—

やぶにらみ論壇

— 何かを得る —

 先日のテレビの取材番組で、脱サラしてある仕事をはじめたおっさんが取り上げられていた。白髪もぼちぼち見える、ほどほどの年輩の人であった。そのおっさんが話した一言に「何かを得られれば、と思って…」とあった。"中学生のクラブ活動でもあるまいに。"と、気になった。
 この「何かを得る」と言う言葉を、実に頻繁に聞く。最も多いのはクラブ活動の目的として使用される場合であるかも知れない。これをやって「何かをつかみ取ってください。」と、学校の先生も堂々と言う。同じことが、高校でも大学でも繰り返される。野球だ、サッカーだ、ゴルフだ、山だ、ダンスだ、…とサークル活動をやっている本人達もいう。俺はこれをやって「何かをつかみたい。」と。
 プロのスポーツの世界でさえも、このスポーツを通して「何かを得る」と、同じ言葉を言う人も頻繁である。山に登って「何かを得る。」つもりなのである。しかしそれが何であるか説明できない。
 学校の選択についてもそうである。その学校に行って、何かをつかめれば…、といって学校を選んでいく。
 だが、よく考えてみよ。「何か」とは何だ。
 列車の駅に行って、「どこかに行く切符を下さい。」と言っているようなものではないか。
 なぜ「何か」が流行るのか。それは自分がどこに行ったらよいか分からないのである。「何かを得て下さい。」という先生は、「何を」得させなければならないのか、本人が知らないことが多そうである。
 それで済むところが、日本人的であるのかも知れない。"家に来てくれ。"というやりとりに、「どうぞお越しください。」「そのうち参ります。」、ということになる。「そのうち」とは一体いつのことか? そのうち行くのか、実は当分行かないということか区別がつかない。
 パウロがアテネに行ったとき、「知られざる神に」と書かれた祭壇をみつけた。これは、哲学で有名をはせたギリシャ人も、こと宗教に関しては「何か」で済んでいることを示す。
 しかし福音の世界は、「何か」では済まない。「救い」は、「何か幸いなもの」と言うようなものではない。何か知らないが、教会に行っていたら天国に行かれた、というようなことはないのだ。
 福音に生きる者は、この世の生活についても、「何か」では済まさず、何を行い、何を目的とするのか、それによって何を得るのか、はっきりさせることが大切である。それがあなたの宗教に対する姿勢に、影響を及ぼすからである。