同労者

キリスト教—信徒の志す—

寄稿

  ~今、信仰が揺らいでいるあなたへ〜  

鎌田 新


 キリスト教徒、つまりキリストを、神を信じた人でも、人生の逆境には信仰が揺らぐものだ。
物事が上手く行っている時に神を信じるのは易い。
しかし、踏んだり蹴ったりの時はどうか?
自慢する訳ではないが、私は実はこう見えて、踏んだり蹴ったりの時が常態^_^?のような者なので、牧師でありながら、時折信仰も揺らぐわけで、そんな時は太宰の人間失格を読みたくなったりするのだ。

 太宰のように堕ちていく人間の赤裸々な弱さの吐露に、シンパシーを抱く人は多いだろう。しかし、信仰を持って生きる人生とは、太宰のように絶望して命を断つのとは真逆の、実にポジティブな、楽観的とも言えるほど前向きな生き方であると言っていい。つまり逆境に強いのだ。

 キルケゴールは死に至る病と言ったが、普通、人は深刻な逆境の中で絶望する。そして神を信じない人、いや信じる事の出来ない人は、自分だけが頼りだと考えているので、信じる者を心の底で愚か者と笑っているのである。がしかし、その人に言いたい、答えは、つまりは真実は、死んでからわかるのだと。

 さて信じている人たちは、少なくとも、キリストの言った言葉を、殊にヨハネの福音書14章の6節、「私は道であり、真理であり、命である。私を通さなくては誰も父なる神の元へ行く事はできない。」との言葉を真理だと信じているのだ。

 個人的な事を言うと、私は神を、キリストを心から信じた時、自分の精神が、つまりこの世の知識やら、あらゆる思考に対して死んだのだ、という事を、たまに思い起こす。
たとえ私の精神が神を否定しても、私の魂はキリストの言葉を信じる事にしたのである。極端に言えば、バカになった(つまり世俗から見れば)。
いわゆるキリストのいう真理を受け入れる事によって他の諸々の言説を究極的な部分では捨て去るのに等しい事になった。

 昔、ヨーロッパで学んでいた頃、片思いしていた^_^?あるスイス人のクリスチャンの女の子が、まだ信仰を持っていなかった私にこう言ったのを思い出す:
「あなたは、ブッダもイスラムも、ヒンズーも、あらゆる宗教や哲学を学び、比較検討しなくては、真理はわからないと思っていますが、キリストという真理に出会った私は、もう他のところに真理を探す必要はなくなったので、あとはもういいのです、一度真理に出会ったので、別にコラーンを読む必要はない」と。

 私は今でも、教養として色々と知るべきだと言う考えは変わらないが、たとえ教養を積んで博識な知の巨人のような人になっても、死ぬまで答えを探しながら彷徨ってしまっては元も子もないとも思う。実際、神を信じない、寧ろ否定する神学博士もいるわけで。

 信仰とはそういうものなのだ。キリストに賭けて生き、そして死ぬ事。信じるのが難しい時にこそ、信じる事。
信じないで生きている人々は、実は無意識に神がいない方に賭けて生きていて、そして死ぬのだという事。

 ただし、聖書によれば、人間の救われる道はただ一つだと言う。道である方を、はっきりと自分がそれだと言った方、を信じるや否や。 そして神の救いとは、人の罪の赦しと永遠の命に入る事である。かたや、人の罪、この世の罪や不正の一切はやがて必ず、すべてを知る神に裁かれ、その罰は免れる事は無い。つまり魂は永遠の生き地獄に堕ちるというのが、聖書にある人間の行き着く定めである。そんなの信じたく無いのが人情ではあるがだ。しかし、いわゆる最期の審判は、この世の不正や不義のために苦しんでいる人々には全くの朗報であろう。

 そしてそれはキリストが、即ち、救い主なる方が、身をもって成し遂げられた事によっているのだ。
2000年前、エルサレムの丘の上に立っていた十字架の上で、聖なる神の御子がその血を流した事で人類の罪は贖われた、と聖書は証言する。ただし、信じる者にのみ、それは約束されるという条件付きだ。もちろんカネを積んでもだめ、大統領でもだめ、信じる事とはそれほどに神の目に重要であり、人間にとっては命懸け、人生懸けなのであるから、やはり神の知恵は深いのである。

 さて、命は死んで灰になり終わり、雲散霧消するものなのか?輪廻転生なのか?それともキリストの如くに死んでも復活し、今度は死なない身体を得て、永遠に生きる事になるのか?
どちらにしても、人はどちらかを選択したままで今を生きていると言えるのである。

 もし、今、あなたが逆境の中にあって、もがいていて、その苦しみや恐れによって、あなたの信仰が薄くなっているのなら、知っておいてほしい、当然ながら信仰とは、順境の時は易く、逆境の時は難いものなのだと。
果たして私個人の信仰はというと、キリストの言った言葉を信じようと思った。彼の言った事がウソなら、自分は他に誰も信じれる人間は歴史上いないと。科学も進化論も、哲学も、何もかも人間の知恵によって作り出されたもの一切の上にキリストを置いたのであった。
何故なら、それらがいかに偉大でも、人間の生死に対する答えを持っていないからだ。釈迦でさえ、道を説いたが、自分が道だとは言わなかったのだ。
答えの無い、わからないまま死ぬより、我こそは真理だ、道だ、命だと思いっきり主張したキリストを信じる。そして、この人が嘘つきなら、勘違いしてたなら、それこそもうどうでもいいと^_^、 いや、しかし、嘘なわけないでしょ、勘違いするような人か?よく福音書を読んでみよう、それこそあなたの、私の命が、死後の行き先がかかっているとしたら、、どうしますか?マジで。

 そして、逆境の時にこそ、それは試される、つまり逆境の時にこそ、信じるのが、信じ難い時にこそ信じるのが、本気の信仰なのである。それこそ、言葉は悪いが、"バカ"のようにだ。理屈を超えた世界なのだ。

 聖書には「死に至るまで忠実であれ」、「どんな時も神に信頼せよ」とあるが、つまりは、そういう事なのである。

(夜越山祈りの家キリスト教会 牧師)