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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-145  —

山本 咲


列王記Ⅰ 15章

 列王記に入り、ソロモン王の後に北と南に別れ、それぞれ王がたてられたところが取り上げられている。北王国と南王国の間には争いがあった。イスラエルとユダは本来一つの国であった。ダビデの時代に繁栄したイスラエルは世代が変わり、ソロモンの時代を迎えた。その初期は平和に歩むことができ、国も安定していた。しかし、時代が進むにつれて、ソロモンは異国の神々を平気で置くようになり偶像礼拝に走った。それにより、イスラエルも、主なる神ではなく、ほかの国々の神々を信じるようになったのだ。それが最終的に国を崩壊させることにつながっていった。ソロモンはその後、国を回復させることができず、地上の生涯を終えることとなった。そして次の代の者たちに不信の歴史が続いていった。ソロモンの後に王となったレハブアムが神とともに歩み、国を神の道へと導くことができたならば、統一国家イスラエルは分裂されることもなかった。しかし、彼は神の道に歩まなかった。ゆえに国は二つへと別れることになったのである。本来一つの神の国として、協調し歩むからこそ諸外国の侵略の脅威を抑え、防ぎ、関係をうまく保っていくことができたはずだった。それによって繁栄していくことが望まれたのだ。にもかかわらず、神を信じないという問題は、国の統一自体を崩壊させたのだ。それゆえに同じ民族同士であるはずのイスラエル内で争いが起こるようになったのである。同じ神を信じるべきイスラエルはこれにより弱体化し、それを見ていた諸外国のいいように扱われることになる。それまでダビデとソロモンで築き上げられたものが、少しずつ削られたのち、南北に別れた故に、その後それぞれの国で新たに王が立てられるも彼らは偶像礼拝をもって自らの正当性を打ち立て、自分勝手に王政を築き上げていくことしかできないものとなった。
 列王に描かれるイスラエルの歴史から、私たちは大切なことを学んでいく必要がある。ただ、白黒、善悪と二分してことを捉えるのではなく客観的なものの見方をしながら歴史から学び、自らの信仰生活に活かしていく必要がある。サムエル記から始まる列王記は預言者の書と言われている。神のみ旨を捉えながら、神を中心として歴史を描いているのがこの列王記である。真の神を信じ歩んでいるのか、逆に偶像を造って神から離れてしまっているのか、もしくは極めて中途半端な立ち位置として神を信じているように見せながらもその行動は全く神から外れているというものも取り上げられている。二心と語られるような姿が隠されることなく王の歴史の中に描き出されているのである。
 私たちは信仰者として生きるときに、生活の中でどれだけ真実に歩んでいるのかが問われ、それが重要である。人々が見てあこがれるような世の中での成功を求められているのではないのだ。
 今日取り上げたところではヤロブアムから始まった北王国でクーデターが起こり、彼の一族が滅ぼされてしまうことが予言されている。私たちはここですぐ挿げ替えられるような王たちの姿を見ることである。彼らは、自分たちの権力を守り誇示していた。それゆえに、滅びへと向かうのである。この中でも北王国と南王国の数少ない善王としてアサ王の働きが記されている。王国自体に異国の神がはびこっている状況の中にあって、父親の建てた偶像を破壊し、王母が権力を表しているときにあったアシュラ像を取り除いた。そのうえで王母の位から彼女を退けた。そのようなことを行うことで彼は宗教的な復興を図ったのである。彼自身は神のみ旨に沿って生きるということを行っていた。しかし、彼も完全ではなかった。本来、神を信じるべきであるにもかかわらず、彼はすでに北王国と手を結んでいたシリヤに賄賂を贈って助けを求めた事実が語られている。結果として、シリヤの王ベン・ハダデはそれを受け取り、北王国を攻め上った。その故に北王国のものを奪い取り、アサ王はそれを上手に手に入れることになる。しかし、これは真の神を信じる王が行ってよいことではなかった。まだはっきりとした評価が付けられていない状態で15章は終えられているが、そのようなことを見るときに私たちは警戒と注意を持ちながら信仰生活を送るべきであると考えさせられる。あたかも御心で物事が正しいように動いていると思ってしまうが、賄賂という方法を用いて契約関係を乱すようなことを決して神はお許しにならない。真の神が私たちに教えてくださっている本来のやり方から外れるものは、いつかどこかのときに違った形で私たちを貶めるものへと変わるのである。間違いというのは生きている中で少なくとも必ず起こってくる。しかし、それにどのように対処をしていくかが重要なのである。悔い改めを行い、本来の自らへと戻していく必要は真の神を信じ歩むからこその賜物である。

Q:先日の遊女ラハブからのメッセージで行いの伴う信仰のことが語られていましたが、ラハブ以外にもカナンの人々には神を信じて選択をしていく機会が与えられていたことが語られていました。選択していくということの難しさを感じました。瞬時に選択をしていかなくてはならないときがくることに対し恐れを抱きます。どのようにして信仰を維持していけばよいのでしょうか。

A:確かに先日のメッセージは選択することの重要性が語られていた。ラハブはエリコの中で唯一ということが語られているため恐れてしまうだろう。その部分だけを読むと救われるのはまれだということばかり強調されているように感じるだろう。しかし、ではできないかというとそうではない。救いは本当に手の届くところにあり、神のみ手は短くない。確かにそのことを信じることができるかということが重要なのである。彼女はエリコの町に嫌気がさしていた。だからこそ、彼女は解放されたいと願っていた。そしてそこから自分や家族を救えるのは自分が信じて行うしかないと思っていたからである。
 彼女の家は一家でホテル業を行っているというような状況なのだ。その中でラハブは接客を含めた遊女の一面をもつ仕事であった。だからこそ、外から旅人が来ることや、時には町の有力者が来て一晩泊まるなどということがあったのだ。彼女は必死に生きていた。その中に彼女の悲しみや苦痛がうかがえる。これしかないのだと諦めるか、それとも私は家族のためにこのような仕事をしなければならないがいつか解放されなければならないと思うかの違いが、彼女を他の人々と分けたのである。
 違いが起こる生き方とはこういうことだ。
一週間やそれくらいたつと結局は慣れてしまって、変革することに至らない。それに対し心から嫌うことができないのである。私たちがそのようなことをきちんともって生きているかということが問われ続けているのだ。そこで物事を変えるため命がけで抗うのか、それともすぐ目に見える収益をもらって、それでちょっとした時間を楽して、それ以降また再開すればいいとするか。神は私たちの求めに応えてくださる方である。私たちがそのままでいてはいけないと思うことが必要であり、その中にこそ神からの救いの手が差し伸べられるのである。
説教題に述べられているように“主は救い”なのだというところに至ることができるかどうかということにすべてがかかっているのである。私たちがそのような感情、感覚を持てるかどうかに真の信仰はかかっているのである。
 老牧師は自らの生き方に対して、そのままでいいのかと絶えず問い続けてきた人物だった。それが彼の厳しさであった。先日の家庭集会で「主人がこうなんです。でもそれではいけないと思うんです」と話がなされた。それに対し、ご主人は「ダメだとは思うがなかなか直らない」と言っていた。そこで私は「人間はやってはいけないということを正すには刑罰が必要である。」ということを語った。私が子どものころ父はごめんなさいと言って許すということはあるが、一方で刑罰としておしりをたたかれた。なぜ許すと言いながらおしりをたたかれなければならないのか。許されたならそれでいいではないかと思った。しかしそれは子どものためにならないと父は考えていた。また注意、勧告、処分ということの現れとして、我が家では3回目の処分で子どもの7千円ほどのゲームソフトを捨てた。決して安いものではない。しかし、刑罰は必要なことである。それを通して私たちは自らを律していくことができるのである。神の贖罪は刑罰を受けなければならない私たちに神の一方的な許しではなく慈しみと恵みが与えられ、併せてそれによる赦しが導かれたのである。

Q:アサは悪い環境にあっても神とともに歩むことを選び取り、正しい道に至ることができました。育児をしていると悪い環境よりも良い環境にと思ってしまいがちですが、それは過保護なのでしょうか。

A:過保護であるかは子どもの問題において加減が難しい。すぎるとか、足らないということが起こりがちである。それは客観的に見ていくことも必要である。しかし、一方で私たちは宗教性として、客観的だけでなく、近しい存在として子どもを躾けるということを大切にしている。とにかくご主人と話しながら、意見のすり合わせをしていくとよい。整備しようということに対してのそれは食い違わないが、その内容については食い違うと思う。この教会の中で集会の間、静かにしているということは決して簡単なことではない。大きなプレッシャーの中にあるだろう。それは子どもたちにとって決して楽な環境ではない。集会が大切だとしながらも、大変だと感情的に出してしまうこともある。また子どもたちの状況を通して厳しく言われることもある。そのような環境をわざと作り出し、子どもたちを育んでいる部分もあるのだ。今のところは過保護だとか、整備されていない環境にさらしておこうと考えるよりも、手探りながら、子どものために何をすべきかと夫婦で互いに話し合っていくことが必要だろう。その内容があなたやご主人のやりたいことをやるため子どもたちにその犠牲を強いているというのでなければ問題ないだろう。そして、なにかあったなら家庭集会の中で私たちも含め話していけばよい。
先日の話で分かってきたのは、あなたの息子の中に他人の癇に障る部分を刺激する要素が見られるということである。しかし彼は無意識に行っているのではなく、コミュニケーションの一環としてわざと癇に障ることをしているのだ。彼は頭がいい。それは彼に対し愛のある人物にとっては、そのようなコミュニケーション方法を通して、豊かな関係を築いていける。しかし愛をもって彼にかかわろうとしない人にとってはその行動はそうさせないものになる。私はそれを強いて是正しなくてよいと思う。だんだんと年齢の積み重ねの中で彼自身にも加減や対象を選ぶということができ始め、より良い経験ができる。その先で彼を諫めても十分間に合う。賢い子を治めていくことはできるが、資質の不足している子にそれを与え身に着けさせるのは難しい。

Q:癇に障るという言葉が出ていますが、こちら側が注意しなければと思うタイミングで自分の状況で左右されているのか、本当に自分の霊感などのゆえに反応したのかがわからないのですが、どう思われますか?

A:私はそのままでもよいと感じる。その人格を愛していると自分が感じられているのなら、感じたままに表現することは必要である。なぜなら、人格は反応してくれる人によって学ぶため、学習する場がなければそれができない。怒りを受けるという場もまた、必要なのである。幼い時にいたずらなどをする子どもは悪さの程度や、感覚が分かっている。しかし、一般的に言う「いい子」つまり人を困らせない子はそれまでの間に加減や程度を知らず、是正が入らないまま大人になる。そのような子は大きくなってから加減が分からず問題になる場合が多い。だからこそ、その場で感情的になる部分も私は必要であると考える。それでも後から振り返ってやり過ぎたと思うのであれば、その分愛せばよいだろう。逆に言うならば、そのように、子どもの行動に対して受け身になっているというよりも、こちら側が主体となっていることが重要なのである。

Q:民数記12章1―10節についてなぜミリアムだけツァラアトになり、アロンはならなかったのでしょうか。

A:首謀者がミリアムだったからではないかと考えられる。特に女性的な関係のところで彼女はモーセを非難した。このことについて幅広く解釈する必要はないが、モーセに対する主権が確かに重要であったことは神が示しておられる。ミリアムは賢く、モーセの働きを助けた人物である。また霊的な賛美の賜物があったことから、実力ある人物だったと分かる。だからこそ、彼女は一面モーセへの思いを募らせていたのだろう。それがこの場で明らかになったのだ。しかし、それはモーセの権威をないがしろにするだけでなく、その背後にいる神の権威を侮ったことと同じだったのだ。だからこそ、彼女は病を受けることとなった。
家庭集会の中では母親ではなく、奥さんを一番にしなさいと旦那さんに伝えている。家族中が奥さんのことを何か言ったのなら、奥さんの側に立ち、奥さんを慰め、家族の側に立ってはいけないと言っている。そして内容よりも、白黒はっきり分けて、感情で動かないようにしているのだ。我が家では末の娘が一番だと言っているが、それを宣言していることで家庭内にその感覚が浸透する。もちろん上の娘をないがしろにしているわけではない。ただ、それぞれに一番があっていいとしているのだ。我が家では私は末の娘を一番としていたし、今は亡き老牧師は上の娘を一番にしていた。そのように平等ではない部分があるということや、だからと言ってそれで自分を卑下したり、他者をうらやんだりする必要もないということを伝えている。老牧師が上の娘と関わっていた部分は確かに彼女の中に見ることができる。そこで彼女自身も特別に愛されたと自覚しているのだ。
話は変わるようだが、家庭集会内で子どもたちが大きくなってきたときについての話が出た。子どもが成長してくると自分中心に物事を進めてしまうことがある。また、要求を通そうと嘘をつくことも出てくる。そういう時に子どもが「私のことを信頼してないの?」と聞いてくることがあるのだ。そういわれると親は動揺して「信頼しているよ」と言ってしまう。しかし実際は信頼できるわけがない。そういう時にどうするべきか「私は自分も信頼できないのにあなたを信頼できるわけない」というべきであるという話をした。大人になってからも自らを欲のままに動かしてしまわないようにするため苦労しているにもかかわらず、子どもがそのように動かないなどとはどうして思えるのか。
 私たちは背後に神がおられるということを常に考えていかなければならない。なぜ親としてその子どもを神から授かったのか。神が召しとしてその子どもを育てることを任されたのだ。ということは、そこにも権威が存在する。神の権威をないがしろにするようなことがあってはならない。同じように、このミリアムとモーセとの関係にも姉弟ではあるが、神の権威のもとはっきりと順位が付けられている。だからこそ、それをないがしろにすることは許されないのだ。またこれは中心人物の関係が壊れてしまうような大きいな出来事であった。だからこそ、神がそこで守るべき権威を示したのである。それはミリアムの姿を通し、民にも示された。神の主権が強く示されたのである。
 私たちも日々の中にあってそれぞれが与えられた権威のもと働くことがある。それは一面厄介だと思うこともあるだろう。なぜこの人の方が上なのかと考えることもないとは言い切れない。しかし、そのようなことも含め、すべての背後には神がおられる。私たちはそのことをもう一度とらえ、考えていく必要がある。そのうえで、神のご意思はどのようなものかと探り求めていくとその真意を見せていただくことができるのだ。それは人の考えなど遠く及ばない、素晴らしき神のご計画である。なお、神とともにこの月も歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)