同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(30) —

野澤 睦雄


「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」」(マルコ 12:29-31)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 ・神が人間のために備えられた救いに関する聖書の記述

<愛>

 救いの恵みにあずかると、私たちは自分のうちに様々な変化が起きたことを認識します。神を愛し、イエス・キリストとその教会、教会の働き人たち、教会の兄弟姉妹を愛すひとになります。隣人をも愛します。また聖書を愛し、個人差はありますが聖書の語っていることが理解できるようになります。
教会に献金を献げ、祈り、讃美することができるようになります。
 なぜそうなるのでしょう。それは新生した人のこころが、古い人のこころとは変わったからです。
 「信仰」は新生のいのちに与えられた「心の機能」ですと説明しましたが、キリスト者が持つことのできる「愛」も新生のいのちに与えられた「心の機能」です。新生したひとのこころにはそのような機能が与えられるのです。
ですから、この愛を救われていない人は持っていません。
 信仰はそれを失うと、救われる前のひとに戻っていってしまいますから、新生したひとのこころにだけ存在することがわかりやすいのですが、この愛も信仰と同様に新生したひとのこころにのみあり、新生していないひとにはこの愛がありません。新生していないひとの持っている愛は、生まれつきの「自然の」愛、「古い人」あるいは「肉」の愛です。「自然の」領域は、善でも悪でもありませんが、「肉」の領域は悪の領域です。
 親子の間、隣人との間に、また男女の間に自然に付属する愛があります。それは、救われたひとの持っている愛にはほど遠いのです。世の中に、特に男女の間の愛という意味での愛ということばが氾濫していますので述べておきますが、キリスト者の男女が結婚するとき確認される「あなたはこの男性(女性)を愛しますか」ということばは、キリストの愛、新生のいのちの持っている愛をもって愛しますか、ということであって肉に付属する自然の愛を問うているのではありません。不信者の男(女)にキリストの愛を期待することは愚かなことです。

      - 愛の顕れ -

 信仰も同じですが、こころの機能は直接それが見えるものではありません。ですから、その機能が働きをした時、その働きを通してそれが顕されます。それで、新生のいのちに与えられた愛がどのように顕されるか検討しましょう。

1) 父なる神への愛
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
神を愛すことが「第一の戒め」ですとイエスは言われました。
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」 (ヨハネⅠ 5:3)
 神を愛すことが「戒め」つまり「律法」を守ることによってあらわされます。
「救われる」ことについて、「律法を守ることによってではなく、信仰によって救われるのです」ということが強調されているため、とまどうかも知れませんが、次のことを考慮すれば理解できるでしょう。この戒めは、モーセの律法のように書かれているものではなく、生きていく間に、必要な時に示してくださる神のみこころにあります。私たちは何をすることも全く自由です。その自由のなかにも、よい品性に変えられるためや、神の事業の働きのため、それは隣人を愛すとか、教会のための働きであったり、いろいろありますが、神が牧師や教会の兄姉や時には不信者の関係者や環境や遭遇する事態、等々を通してみこころを示し、私たちを導いてくださるのです。
 ヨハネはその神の「命令」は主にある兄弟を、お互いに愛すことだといっています。
「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。」(ヨハネⅡ 1:4-5)
 そこで兄弟を愛するために何をしなけれればならないかは、実際の生活のなかで察知しなければなりません。その神のみこころを察知できるか否かは非常に重要なことです。
・神への愛は悪を憎むことによって顕されます。
 「主を恐れることは悪を憎むことである。」(箴言 8:13)
・神への愛は世を愛さないことによって顕されます。
「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」(ヨハネⅠ 5:3)
 信仰生活のなかで、「それは世を愛すことです」と聖霊が示されることを避けなければなりません。

(仙台聖泉キリスト教会員)