同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステに学んでおくべきこと —

「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。」(ヘブル 4:8-9)

 
 今回は以下の項目を考察いたします。
皆さんに、ここに述べている事柄にしっかり向き合って頂きたいと思います。

1.神が人間に備えられた救いの概要
2.新生、聖化、栄化に対応する歴史上のできごと
3.記憶すべき要点
4.ひとに与えられる神の救いの恵みの質と量の問題
5.聖化は瞬時であること
6.「自分を神に捧げて潔められたと信じなさい」という勧めについて

1.神が人間に備えられた救いの概要

 神が人間に対して備えてくださった「救い」は、
新生-聖化-栄化
の3段階から成り立っています。
この三つを合わせて全体を「救いの恵み」というのがよいと思うのですが、「救い」というと「新生」の段階を指すことが定着しています。
 神のこの三つの段階から成る「救いの恵み」は、すべてイエス・キリストの十字架の贖いによって人に与えられるものです。
それはただ贖いのみによって与えられるものであって、それになにか・・善行のようなもの・・を付け加えることは決してできません。
何かを付け加えようと思うひとは恵に与ることができません。贖いだけをたより、それを約束している聖書のことばを信じなければなりません。

<新生>
新生には、
・実行した(犯した)罪の赦し・・義認
・新しい霊のいのちの付与・・新生
の二つの事柄が含まれています。
これは一度に与えられる恵であって決して切り離す・・別々の時に与えられる・・ことはできません。

<聖化>
聖化には、
・古い人(原罪、罪の根、神に服従しないこころ)の聖絶
    =キリストと共に死ぬこと
・聖霊の満たし
    =キリストと共に生きること
の二つの事柄が含まれています。
聖化もまた一度に与えられる恵であって古い人の死と聖霊の満たしを別々に受けることはありません。

<栄化>
栄化には、
・地上の体と決別すること
・霊の(天の)体が与えられること
の二つの事柄が含まれます。


2.新生、聖化、栄化に対応する歴史上のできごと

神のこの救いの恵の三段階は、それぞれ歴史上のできごとと結びついて、その時初めて人間に与えられ、それから後はいつでも与えられるようになりました。
「今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリントⅡ 6:2)

・新生・・・イエス・キリストの初臨
新生に対応する歴史上のできごとは、イエスの初臨です。私たちはそれをクリスマスとして記念しています。その内容には、イエスの誕生から十字架の死、復活、昇天まで含まれます。

・聖化・・・ペンテコステ・・聖霊の降臨
聖化に対応する歴史上のできごとはペンテコステ(聖霊の降臨)です。

・栄化・・・イエス・キリストの再臨
栄化のできごとに対応する歴史上の(まだその時が来ていない、未来の)できごとは、イエス・キリストの再臨です。


3.記憶すべき要点

 <新生について>
 新生は新しい霊のいのちが与えられることであって、古い人、生まれつきのままのひとが生まれ変わることではありません。
イエスに新しく生まれるといわれたニコデモは生まれ変わるという発想をしました。
 新生した人にも、古い人はそのまま生きているのです。それが「聖化」を必要とする理由です。

 しかし、新生した人には、神の性質・・柔和、忍耐、優しさ等・・が少し分け与えられ、救われていなかった時にはできなかった人を愛することができるようになります。そして新生した恵による信仰生活が続きます。

 パウロはこの段階のひとを、「キリストにある幼子」「肉に属しているひと」と表現しました。
「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。」(コリントⅠ 3:1-3)

 <聖化について>
「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」(ローマ 8:2)
とパウロが解説していますが、罪と死の原理とは、古い人が生きていて働いている事を指し、いのちの御霊の原理がそれから解放した、というのは、その古い人がキリストと共に死んで=聖絶されて、聖霊に満たされてキリストと共に生きる事のできる人に変えられた、という事です。

 聖化の恵みに伴って人間に与えられるものは「キリストの平和(安息)」と「自由」です。この自由は罪の体つまり古い人からの解放で、この世に属する自分自身とこの世と世の欲からの解放ともいえます。これが冒頭のみことばの神の民のための平安です。

 「キリスト者の完全」「全き愛」という表現がされたため、聖化の入り口におけるひとの恵の状態が過大に解釈されたむきがあります。そうではないことが丁寧に説明されているのですが、受け取る側が理解できないのです。聖化の入り口は「キリストと共に死にキリストと共に生きる」ことが実現したことのみであって、多くのことを愛をもって処理できるようになるためには訓練を必要とします。
 聖化の恵を受けたひとには「聖潔」の生涯が続きます。聖潔に生きている人もすべてのことを完全に行うことができるのではありません。
ただし、聖化の恵に与った人は、善である動機によって物事を行うことができるようになります。
<悪意を持って隣人に対処することがない>ということがこの恵と共に与えられることです。
 パウロは聖霊を受けたひとを、「キリストにある成人」(コリントⅠ 2:6)「御霊に属するひと」(コリントⅠ 2:14)と表現しました。
「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」(コリントⅠ 2:12-13)

<栄化について>
 聖書には「栄化」ということばはなさそうですが、不死の体・・朽ちない体・・に変えられることが述べられています。
「私たちはみな、・・変えられるのです。・・たちまち、一瞬のうちにです。・・死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(コリントⅠ 15:51-54)
 ひとは霊、魂、体から成っていますが、栄化とは体が贖われる(ローマ 8:23)ことを意味します。
復活されたイエスが、私たちの与えらる栄化された体がどのようなものであるのか、部屋の壁に制限されないで自由に出入りしたり、食物を食べたりと、僅かですが示しています。
 イエスの再臨の時、既に死んでいるひとは、地上の体は朽ちてしまっているので、新しく霊の体が与えられるのであり、生きてイエスの再臨を迎える人は、地上の体が朽ちることのない霊の体に変化させていただくのであると、聖書から読み取れます。


4.ひとに与えられる神の救いの恵みの質と量の問題

 神が人にお与えになる恵の質は、地上に生きている間は「新生を受けた質」と「聖化を受けた質」の2水準しか存在しません。
 信仰生活を続けると恵の「量」が増えるのであって質が変わるのではありません。
 自分のこころの内をよく観察して、「私は信仰生活を続けるうちにだんだん聖くなりました。3年前、5年前、10年前と比べてこのように聖くなりました。」といえる人がどこかにいるでしょうか?
もしもそういうひとがイエスを信じる人々の多数を占めていて、それがキリストが人間に与えられる恵を総合的に示しているのであるなら、私は自分の理解しているものを変えなければなりませんが。

 聖潔の生涯においても、恵みの量が加わるのであって「より聖くなる」ということは決してありません。
「栄光から栄光にすすむ」と表現されていますが、質の変化が述べられているのではなく、恵みの量が増し加わることを意味しているのです。


5.聖化は瞬時であること

 漸進的に聖化が与えられることはありません。
聖化は「キリストと共に死ぬ」ことであるからです。
また聖霊に満たされることは瞬時の経験です。
時間をかけてだんだん聖霊に満たされるということはありませんから、聖化の漸進性という表現は的外れです。

この問題は聖化(聖潔)の恵が明らかにされた当初から、常に議論され続けてきましたが、理解されていないため、聖化の即時性と漸進性といわれます。
漸進性による聖化という表現は「だんだん聖くなる」ことを意味しますが、そういうものは存在しません。
死は瞬時のできごとです。死にいたる過程は「だんだん死ぬ」ことではありません。死にはその瞬間があります。
 救いの恵、すなわち罪の赦しと新生に与るとき、救いに至る過程がありますが、それはだんだん救われたのではありません。
 同様に聖化の恵に与る時も、そこに至る過程がありますが、それはだんだん聖くなるのではありません。

 「だんだん聖くなる」ことを求めるひとは決して聖化の恵に与ることはないでしょう。
瞬時の聖化を経験していない人は、聖化の恵に与っていません。

聖霊は聖化を与えたひとにそれを与えたことを分からせてくださるのです。
瞬時の聖化に与ったけれどもいつであったか特定できないひとはいるかも知れません。
しかしそれはだんだん聖化されたのではありません。そのひとが気づかなかっただけです。聖霊がその変化を分からせて下さる時を遅くされたのです。
イエスは、「ひとは新しく生まれなければ神の国を見ることができない」と言われましたが、まったく同じことが聖化のことでもいえます。

「人は聖霊を受け(聖化の恵に与から)なければ、聖霊の世界、聖潔の世界を見ることができません。」
「御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(コリンⅠ 2:14)
 聖霊を受けていないのに、知ってる、見えると主張するひとは、パリサイ人たちと同じく「見えるというあなたがたの罪が残ります。」と聖霊に指摘されるでしょう。


6.「自分を神に捧げて潔められたと信じなさい」という勧めについて

 きよめ派のひとびとは聖会において恵の座というものが開かれ、「神に献身をし、潔められたと信じなさい。」と勧められることを経験するでしょう。
 あるひとは、その通りに恵に与りますが、多くのひとはやっぱり元通りの自分をみいだすでしょう。
元通りときづけばいいのですが、あの時潔められたのだと思い込み続けるひともいるでしょう。
 元通りであるにもかかわらず、あのとき潔められたのだと信じ続け、自分の持っている恵の質が聖潔の恵の質であると誤解し、それが潔めであると主張するひとは、聖潔の恵の質を、新生の恵の質の程度であると聖潔を誤って理解します。

 聖化の恵に与るか与らないかを分けるものは、本当に「献身」できたかどうかでしょう。

もうひとつ、本当に献身できたとき「何を信じるのか」です。「イエス・キリストの血が聖める」(ヨハネⅠ 1:7)というそのことばを、神が自分に実現してくださることを信じなければなりません。

 神はアブラハムを試みられたと同様に、私たちが「献身します」といったそのことばをテストされます。
そのテストに合格したなら、神は喜び、平安、自由に満たして下さるでしょう。
 神のテストをどのようにしたら受けられるでしょうか?

まず神に求めることです。

昔のひとびとは、祈るときいつも自分と神の間に「ぶら下がる」ものがあるといいました。
皆さんのうちで、神に祈るときそのぶら下がるものを見いだした方は、ヨルダンの岸辺に到着したと思ってください。
「神の国は遠くない」のです。そのぶら下がるものこそが問題点です。
それこそが不従順を悔い改め、キリストの血を仰ぐ大切な問題です。
そのようにすれば、「イエス・キリストの血はすべての罪から潔めます。」
(ヨハネⅠ 1:7)

 「今は救い(きよめ)の日です。」

皆さんがこの恵に与り、神の民の安息に入れていただけますように。