同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書講義

— 昨日のサムエル記(その2) —

山本 嘉納

 今、子供が母親の胎内で成長する姿を大変はっきりと見ることが出来る。研究が進み出産までの胎児の成長メカニズムがずいぶんと判ってきている。特に聴覚が五感の中では早く形造られ、聞くことが出来るようになるらしい。我家の3番目の子は、ちょうど伝道コンサートの練習期間、母親のお腹の中にいたので今でもドラムの大きい音の中でも平気で眠れる。自分の子供をよく研究すると自分が何者であるかよくわかる。家内の血も半分入っているので安堵する部分と言うか、責任逃れできるところも無い訳ではないが、一般に言われているように子供は親のコピーである。子供が与えられるまでは判らずに心配していたことがあった。それは、自らの子供たちは自分と同じように神の救いを見出してくれるだろうかというものだった。しかし、共に生活するようになって判ったことは、そのためにこの子供たちと今という時を共有していることだった。
 サムエル記には、預言者サムエルの誕生のいきさつが書かれている。彼の母であるハンナという女性の姿は、聖書の人物を取り上げた本には必ずと言っていいほど載っている。私の書斎の本棚にも何冊か聖書の女性を取り上げた本があり、時々取り出して読んでいる。これらは、私の家内が嫁入りに持ち込んだものだった。よくよく見ると家内のではなく、家内の母親のものである。家内の母は、1991年の7月に癌で天に召された。その年の2月にそれと判り医者は持って半年であると言った。私は教会にもたらされたこの大きな問題の部外者でいるわけにはいかなかった。一人の聖徒を天に送らなければならない。癒しを願わなかったわけではなかった。しかし、それと同時に神の御旨が別の所にあるかもしれないことも覚悟した。それ以上に教会が、否、自らがどのようにあるべきかを問い質された時であった。召された母は、私たちの結婚に立ち会うことはできなかった。しかし、彼女は娘のウエディングドレス姿の写真を痛みと戦いながら病床で見ることが出来、そして喜んでいた。献身させた娘が、確かに神によって受け入れられたことを確信したのである。
 ハンナが大いなる苛立ちの中で子供が与えられることを願った記録は、人間の願いの出所を判り易く現している。聖書を見てみよう。サムエル記Ⅰ1章の6節には「彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。」と書かれている。時々私の説教に登場する話だか、日本の昔話によく鬼婆が出で来る。漢字で書くと感じが出ない。ところがこれを、「鬼ババァ」と発音するとまぶたの裏に一人二人それらしい顔が浮かんでくるから不思議である。それが誰に似ていると言ってはいけない。しかし、昔話には鬼ジジィと云うのは聞かないし、またそれらしい顔も浮かばない。詰まる所、女の執念、怨念、恨み、つらみ、嫉妬は恐ろしいということである。くれぐれも愛する女性は一人にしておいた方がいい。だいぶ脱線しているので元に戻すが、ハンナにとっては相当に辛い時であった事が同姓でなくても判る。問題は神が彼女の胎を閉じているところにある。そして、それが周知の事実であったことも彼女の立場を悪くしなお一層苛立ちを募らせていたのである。信仰者を少しやると信じたからといって何でも思い通りになるのではないことが判る。それ以上に私たちは理不尽なことが多いことに悩まされる。しかし、信仰者になったということは特別な神の扱いの中に入れられたと考えなければならない。そして、それがどのように特別かというと新しい価値観が神によって与えられたことである。これは天国の価値観である。そこに入る者は積極的に身につけるべきものであればこそ、神は色々な手段を採って私たちにそれを学ばせようとしておられるのである。永遠に生き続けられる天の御国であるから、そんな所に万が一間違って全然違う価値観を持って入ったならそれはその人にとって居心地の悪いことこの上なしである。天国のはずが地獄になってしまう。ヨハネの福音書の9章には、生まれつきの盲人を目の前にして弟子たちが「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と質問している。どこかの誰かが聞いたら「人権侵害、それでもクリスチャンか」と言われてしまいそうである。キリストの解答は、言葉としては理解できるが信仰者として新しい価値観を身に着けていない者には、不可解なものである。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」ハンナの胎を閉じておられた神、彼女を苛立たせ悲しめることだけが彼の目的ではなかった。神のわざがこの人に現われるためだったのである。
 だんだんと途中で止めてしまっている問題に戻らなければならない。人の願いの出所の話である。ハンナは苛立ちと理不尽な扱いとの中で自らがこんな辛い目に会っている元凶を取り除いてほしいと考え、それが子を得ることであり愛されている女性ならば当然持っている権利であると主張している。これが人間ハンナの願いの出所であると私は想像する。そしてこの時、神は別の願いを持ってこの問題の結論を出そうと考えたとも想像できる。神の器たるにもっとも必要な考えは何かと聞かれたら何と答えたらよいだろうか。それは、自らに当然与えられていると確信できる権利をさえ放棄できる明け渡しの心だと私は信じている。神は、祈りに答えて彼女に子供を与えてくださった。彼女の祈りはこう書かれている。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。」人がひとたび祈る時、神はその祈りと共にあってくださり聖霊なる神が不思議な力を持って心を満たしてくださる。人間的願いは既に消滅し御旨が彼女の心となっている。確信が与えられた彼女は、この後、二度とこの問題で苛立つことも、神を理不尽な方だと思うことも無かったことだろう。それ以上に彼女は喜んで与えられた息子を神に献げたのである。新しい天的価値観は彼女を支配し息子の成長と共にいよいよ地上で御国が明らかにされることを感謝したことだろう。
 森田咲子姉-享年54歳。愛する私たちの亡き母は、多くのものを放棄しなければならなかった。しかしそれらは新しい天的価値観の中では、なんの輝きも示さなかったことだろう。神が与えてくださる恵みは、人の願いをはるかに越えた天的輝きを発する「神のわざ」であることに感謝する。彼女が私たちの教会に与えられた神の同労者であったこと、その務めが愛するものに受け継がれたことを確信する。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)