同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 人材の求め —

「競技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうする のですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」
(コリントⅠ 9:25)

 "人材育成の強化 柱に"通産、これは日刊工業新聞、1999年10月8日の記事の見出しです。
 世を挙げて人材の必要が説かれている時代です。それは経済界や政治の世界、あるいは学問の世界などにおいてもそうですし、スポーツや芸能の世界でも、人材を求めて専門のスカウトマンが奔走しています。プロ野球を例に取れば、上原や松坂一人を獲得しただけで、そのチームはなんと違っていることでしょう。そこに人材の効果が示されています。
 同様に、教会は人材を求めています。人は神の方法です。E.M.バウンズは、その著書「祈りによる力」の冒頭に次のように述べています。

 "私どもは常に教会を進歩させ、あるいは福音の地盤を広げ、またこれを力のあるものにするために、新しい方法や計画、あるいは新しい組織を作りだすことに力を尽くしております。しかし、現代におけるこのような傾向は、人の価値を見失わせたり、あるいは計画とか組織の中に人を葬ってしまうという恐れがあります。元来、神の計画は、何ものよりもはるかにまさって人を用いようとするところにあります。実に人は神の方法であります。教会はひたすら、更にすぐれた方法を求めていますが、神はすぐれた人を求めておられるのです。…今日教会に必要とするものは、…ただ聖霊が用いられることのできる人であります。"

 ここに、人材の必要と、どのような人材が必要であるかが述べられています。
 しかし、神の人材もはじめから、役に立つ人であったとは限りません。人は育てられて人材となるのです。どのような土壌、環境であったなら人材が育つのでしょうか。私たちは、次の世代の担い手たる人材の育つ良き土壌を提供したいものだと願い、そのための努力をしています。
 人は神が置きなさった場を変えることはできません。どうしてこんな親から生まれてしまったのだ!と嘆いても、別の親に生みなおしてもらうわけにはいきません。しかし、人は自分を変えることができます。…そう、自分自身の力によるのではなく神の恵みによって!
 ですから、神の人材となりうるか否かは、生まれによらず、育ちによらず、環境によらず、周囲の人の如何によらず、私たち自身にかかっています。私たちの心がけ次第で、私たちは教会の中の上原にも松坂にも匹敵するものとなりえます。
 信徒会(仮称)も人材を求めています。
神が、これを担う人々を多数起こしてくださいますように!