聖書研究
仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1996.5.28 から
ローマ人への手紙(第2回)
野澤 睦雄
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(ローマ3:23~24)
- 前回の学びを要約しますと、以下のようなものとなります。
- 緒論(挨拶)…緒論には、作者、書いた年代、書いた場所、送った相手、書いた理由目的、などの概要がしるされていること。
- 構成 …大別すると次の5区分に分けられること。
- 緒言(挨拶)
- 救いの教理に関する解説
- 聖潔の教理に関する解説
- 結実の教理に関する解説
- 結語(結びと個人への挨拶)
- 緒論の内容(ローマ1:1~17)
テーマは「福音」です。パウロは、「私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」(ローマ1:5)といって、福音を受けた人々に与え得るものを示しています。
・補遺…パゼット・ウィルクスの分解「ローマ書講演」から- 記者と神の関係(ローマ1:1~5)
- 記者(1:1)
①キリストの奴隷
②使徒として召され
③神の福音のために聖別され
④使徒たるの恵みを受けている - 福音とは何であるか(1:1~5)
①あらかじめ予言されたもの(1:1)
②人格を備えた救い主に関するもの(1:3)
③その救い主は歴史上の人物であること(1:3)
④救い主は神であること(1:4)
⑤福音は人間に託されていること(1:5)
⑥福音の目的(1:6)
- 記者(1:1)
- 読者と神の関係(ローマ1:6~7)
- 信者(1:6~7)
①イエス・キリストに召された者(1:6)
②父なる神に愛されている(1:7)
③聖徒になる召しを受けている(1:7)
- 信者(1:6~7)
- 記者と読者との関係(ローマ1:8~17)
- 福音宣伝者としてのパウロ(1:8~16)
①彼の心の広いこと(1:8)
②彼の心の忠実であること(1:9)
③彼の心の深いこと(1:10~12)
④彼の心の堅いこと(1:13)
⑤彼の心の責任感(1:14~15)…
「私は…負債を負っています。」(1:14)…良心における用意
「私は…したい(願っている)」(1:15)…心情における用意
「私は…恥と思いません」(1:16)…理知における用意 - 福音における神の力と神の義(1:16~17)
「福音のうちに神の義が啓示されていて」(1:17)ここに言う「神の義」は、神の御性質を説明しているのではなく、「人に神の義が与えられる」ことを言っています。そして、義人とは何であるか、信仰によって(義に)生きるとは何であるかの解説が続きます。
- 福音宣伝者としてのパウロ(1:8~16)
- 記者と神の関係(ローマ1:1~5)
- 救いの教理の解説(ローマ1:18~5:21)
救いの教理の解説は、次の二部分で構成されています。
・人間の罪について(ローマ1:18~3:20)
・信仰によって義とされることについて(3:21~5:21)
- 人間の罪について
- 異邦人の罪(1:18~32)
- 神の義は、不義をもって真理をはばむものを怒ります。(1:18)
なぜ、真理をはばむと言うのでしょうか … 神を知り得るのにそれを拒否しているからです。
(1:19~20) はばむ(阻む)は妨害することです。パウロは、神の目に見えない本性は、被造物(世界)によって悟ることができると主張しています。人間は自分の知恵によっては神を知ることがない(コリントⅠ 1:21)ことも真理です。拒むことなく神の前に立つとき、聖霊はこの世界を通して創造者を悟ることを助けて下さいます。
ブラザーローレンスの救いの経験はその良い例です。以下はブラザーローレンス「敬虔の生涯」の引用です。
「ある冬の日、私は落葉して見るかげもない一本の木を見ながら、やがて春が来ると、其の木に芽が出て、花が咲き、実を結ぶ ……、と思いめぐらしているうちに、いと高き神の摂理と力とを魂にはっきりと映され、深く刻みつけられました。そしてこの世のことはすっかり心から消え去りました。この恵みを受けてから、もう四十年たちますが、その時ほど神への愛を強く感じたことはないと言えるかも知れません。」 - 神の怒りが啓示されている(1:18)といいますが、それは、神が放置された人間の姿に顕わされています。その姿は、
a 神を拒絶し、神に代えて偶像を拝む者となった。(1:21~23)その心は、①空しく ②無知で ③暗い。
b 心の欲望のままに生き、その体を恥ずべきものに使う。(1:24~27)その理由は造り主を拝まず、造られたものを拝むからである。(1:25)バアルやアシュタロテ礼拝、日本の道祖神など多産の神と称して、その実、人間を汚れに導く。
神道、仏教、はもとより凡ての偶像を拝すること、偶像教を信奉することは、神の前には殺人、強盗、姦淫以上の罪であり、忌み嫌うべきものであることを忘れてはいけません。 - 神を知ろうとしたがらないので、神は放置され、人間は自らの内から出てくる思いに従って歩みます。(1:28~32)
a 神無き人間の内から出てくるものは、「あらゆる不義」「貪り」「悪意」「ねたみ」「殺意」「争い」「欺き」「悪だくみ」「陰口」「そしり」「神を憎むこと」「人を人と思わないこと」「高ぶること」「大言壮語すること」「悪事をたくらむこと」「親に逆らうこと」「わきまえのないこと」「約束を破ること」「情け知らずなこと」「慈悲がないこと」といったものであると、パウロは列挙します。
b 自らこれを行うのみでなく、これを行う他の人を支援します。
- 神の義は、不義をもって真理をはばむものを怒ります。(1:18)
- ユダヤ人の罪(2:1~29)
- 「他人を審く人」への指摘(2:1~5)
本当は、前章(1:32)に示すように、「それを行う者に心から同意して」いながら、「彼らはこんなことをしている」と審く人々よ、あなた方も同じことをしているではないか(2:1~3)と、パウロは言います。 - 神の審判は公平であること(2:6~11)
ユダヤ人が異邦人の罪を指摘する姿を言外ににおわしています。 - 律法を持っている者と持っていない者の審き(2:12~16)
神の審き(2:16)は、人々の隠れたことをさばかれる日に行われます。 - ユダヤ人への指摘(2:17~29)
- 「他人を審く人」への指摘(2:1~5)
- ユダヤ人のすぐれたところは何か(3:1~20)
- 彼らには「神のことば」をゆだねられていること
この神のことば「律法」によって、人は「罪の意識」を与えられます。その罪の意識が、「口をつぐんで神の審きに服させる」のです。(3:9) - 「神のことばを委ねられたユダヤ人に、不真実な者があったらその不真実によって神の真実が無に帰するか」という議論(3:3~4)
「絶対にそんなことはありません。」(3:4) 神の真実は無に帰することがない、神を真実とすべきであると結論します。 - 私たちの不義が神の義を明らかにするのに、神がこれに怒りを下されたら、神が不正ではないのかと言う議論(3:5~8)
その結論は、「善を明らかにするために、悪を行おうではないか」(3:8)などと言ってはいけないということによって明らかにされています。 - すべての人は平等に神の前にあること(3:9~18)
すべての人は平等に神の前にあり、『義人はいない。ひとりもいない。』(3:10)のであって、すべての人が神の審きに服さなければなりません。
- 彼らには「神のことば」をゆだねられていること
- 異邦人の罪(1:18~32)
- 人間の罪について
- 緒論の内容(ローマ1:1~17)
- <今回の学びの結び>
- 律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められることはありません。ですから、信仰による神の義が必要なのです。今それが示されました。(ローマ3:21)と、パウロは信仰による義に論を進めます。
(仙台聖泉キリスト教会員)