同労者

キリスト教—信徒の志す—

証詞

1999.11.7 仙台聖泉キリスト教会にて
— 仙台聖泉キリスト教会 野澤靖乃姉 —

 11月7日「昼の伝道会」の際に、野澤姉より、彼女の母である故山崎はる姉の召天五周年を記念して、同姉の救いの証詞がなされました。この方は、亡くなる当日の朝救いに与り、天国に行かれた確かなあかしを周囲の者たちに残しました。

山崎はる姉の救い
 10月30日は母(山崎はる)が救われた記念日なので、それを記念してお証しさせて頂きたいと思います。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。…。
 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願するところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為の報いを受けることになるからです。」(コリントⅡ 5:1~10)
 母が亡くなったのは、丁度五年前のことです。葬儀の式次第がとってあり、毎年その日が来ると、見ています。やはり涙がこぼれますが、泣いているのを子供に見られて、「まだ見ない方がいいよ。」と、言われたりしました。
 五年経って、だんだん整理ができてきました。母の救いと死は、その後の私の信仰に影響があったと思います。
 母は船橋の兄の家に住んでいました。肝臓癌と分かりましたが、本人には肝臓に粒状の小さな腫瘍がたくさんができているとだけ説明して、癌だとは知らせませんでした。高齢のためもう手術はしないで、アルコール注入法による処置を2回受けました。
 母は、49歳で未亡人になりました。私はずっと家にいたので、母の苦労、悩み、などをみてきました。母自身は、別の宗教を信じていましたが、私と弟とを教会に通わせてくれました。
 結婚後私は、この母を何とかして救いに導いてあげなければと思っていました。しかし、離れているため、仙台にきたとき、娘が世話になっているからその挨拶のためにと教会に顔を出す程度にしかならず、母を導きたい思いは実現しようがありませんでした。
 私の両親は、子供のためだけに生きたような人でした。癌になって2年経ったとき、私はその最後を喜んでもらいたいと思いました。それで、千葉県にいるのではどうにもならないので、なんとか仙台に連れてきたいと思いました。私は心臓病で入院を何度もしていた上に、店の仕事と家事を一人でこなしていましたから、自分の健康状態や仕事の中でそれができるだろうか、と自分でも危ぶみました。
 また、医者に相談したところ、医者も仙台に連れていくのには反対で、自分の住み慣れたところで最后をむかえるのが一番いいと主張しました。
 しかし主人は、母を仙台に連れてくることに賛成してくれました。(そのとき、兄は中風で半身不随となっていましたが、倒れる前の会社で経理の仕事をつづけていました。松葉杖を頼りに電車で通うのですがそれでもなかなか大変で、姉の補助や介護が必要でした。そのような事情があったため、)長兄夫婦は、私が母の面倒を見ることを承知してくれました。それで、母を仙台に連れてくることができました。
 病院の医師には、仙台に行くことを話してきませんでしたので、月一回の検診の日には、11時の診察に間に合うように、新幹線で連れていきました。それを繰り返していましたが、あるとき母が医者に仙台にいることを言ってしまいました。(そうしたら医者は、仙台で病院にかかることができるようにと、国立病院宛に紹介状を書いてくれました。)
 仙台に来てから、山本和子先生が何回かたずねて下さっていました。仙台では知っている人がいなくて、顔を合わせて話ができる人は、先生くらいしかおりませんでした。和子先生にお会いすると、「自分の宗教を捨てられなくて、心苦しい。」と、私に言っていました。
 店を閉めてから、母をお風呂に入れていました。その際いろいろ話し合うことができましたが、母は中風の兄のことや他の子供たちのことをいつも心配していました。その時私は、"健康であることも生活が安定することも幸せであるけれど、心が満たされなければ幸せにはならない。"と、母に話しておりました。ある時から母は、ピッタリとそれを口にしなくなりました。
 少し足が弱くなってきたことを感じた母は、寝たきりになって、私の手が掛かるようになることを心配し、いつも家の周囲を散歩していました。
 ところが、家の前でころんで頸椎を痛めてしまい、そのため国立病院に入院しましたが、激痛に苦しむようになりました。それで、看護が必要となり、私は家と病院の間を1日4往復するようになりました。
 そのうちに黄疸が出て、足がすっかりむくみ、私は病気の進行を悟りました。そして、母の死が近いことが分かりました。そのため、早く救っていただけなければ、(母は天国にいけず、永遠の別れになってしまう)とあせりを感じました。
 私の自動車のカセットレコーダには、レーナマリヤさんの歌のテープが入っていて、それを運転の度に聞いていました。そのテープの中で、レーナマリヤさんのお母さんが、「試練に合わせないで下さいと祈るのでなく、試練の中にともにいて下さる神様を信ずる。」と言っていることで、励まされました。
 自動車で移動している間にも、「ご臨終です。」との電話が家に入っているのではないかと、いつも心配でした。
 母は私を心配して、「来なくてもいいよ。」と言うのでした。そして、もう大分寒い季節になっていたのに、私が帰るとき、足にかけてある布団をどけてくれ、と頼むのです。なぜ、と聞いたら、家に戻ったとき寝たきりにならないように、足を動かして歩く練習をすると言いました。母は自分が死ぬとは思っていなかったのです。
 10月30日、日曜日でしたので主人は直接教会に行き、私だけ病院に行きました。すると、母は待っていたように、「今朝、不思議な夢を見たよ。赤ちゃんのように白い着物を着せられて、教会の前に椅子にすわってお祝いしてもらったの。」と言うのです。私はその時とっさに、母はお葬式の夢を見たのだと思いました。今までこの言葉を口にすると母は死を悟り、絶望するのではないかと思って、言いかねていましたが、そのとき神様がチャンスを与えて下さったことを感謝しました。「おばあちゃんも、私が信じている神様を信じて、天国へ行く準備をしない?」という私の問いかけに、母はすなおに「私は天国にゆくよ。」と答えてくれました。
 母の死がいよいよ迫っていると感じて、二人の娘を病院に呼びました。すると、母は孫である娘たちに向かって、自分から「私は天国にいってあなたがたを待っているからネ。」と言いました。
 私は、母が和子先生に、「自分の宗教を捨てられなくて申し訳ない。」と、言っていたそのことは、長い間かけて神様が母の心を耕して下さったことを示しているのだと思います。
 その日の午後、山本先生と和子先生が来て下さって、洗礼を授けてくださいました。
 前日まで、お寿司が食べたいといい、それを食べることができたのに、その日はもう"ごっくん"と、ものを飲み込むことができなくなりました。子供の時、私と教会にいっていた弟が来てくれていたので、その日の夜、容態が悪いので、弟と病院に泊まるための準備に、私は一旦家に帰りました。それで、弟一人が母の最後をみとる結果となりました。
 私が呼ばれて行ったときには、母はもう息を引き取っていました。弟にしっかりした声で、何度も何度も繰り返し「ありがとう。ありがとう。」とだけ言ったとのことでした。
 はじめに読みました聖言は、山本先生が母の葬式のときに読まれたところです。この五年間、いろいろな困難なことに直面したとき、心が揺らぐときがありました。しかしその度に、この母の救いに引き戻されることです。
 讃美歌「慈しみ深き友なるイエスは」と、「山行くも海行くも」とが母の告別式の時に歌われました。その一節に、
  山行くも海行くも み光を歩まば
  見捨てじとのたまえる 約束は変わらじ
とあります。み光に歩みさえするならば、見捨てないとの神様の約束は変わらない、ということに引き戻され、その度に私は信仰に帰らせられました。「私はあなたを信じていきますから、お約束に歩まさせて下さい。」と願わされます。
 以前私は、母は救われないのではないか?と思ってあきらめてしまうことがあって、和子先生から、「大丈夫よ。最後まで信じて。」と言われたことが何度かありました。
 母が最後の苦しいときに、何も言わず、ただ「ありがとう。ありがとう。」と言って人生を終わったその姿に、神様がわずか半日の間に、母に天国に行く心の備えをして下さったことを見せられました。
感謝しております。
(仙台聖泉キリスト教会員)