同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 東方の博士たちに学べ —

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、みよ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。…』 …そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
(マタイ2:1~11)

 本年もクリスマスの時期がやってきました。毎年この頃になると、マタイの福音書のはじめの部分と、ルカの福音書のはじめの部分が開かれて、イエスのご降誕について説教がなされ、私たちもその出来事に思いをめぐらします。
 生まれたばかりのイエスを礼拝しにやって来た、東方の博士たちの記事に、私たちは多いに学ばせられるのです。聖書には東方の博士たちとのみ記されており、彼らがどこの国の人たちであったかは不明です。アッスリヤに捕らえ移されたイスラエルの人々、バビロンに捕らえ移されたユダの人々は、全員がユダヤに戻ったのではありませんでしたから、それらの人々を通じて、エホバの神を信じることが、東の国の人々に伝えられていたとしても不思議ではありません。
 東方の博士たちは「ユダヤ人の王」と言ってはいますが、その方が自分たちも含め、人類全ての救い主であることを知っていたものと思われます。だからこそ、危険な砂漠と荒れ野の旅をいとわず、はるばるやって来たに相違ありません。
 彼らは、救いを探求しました。そして、彼らの救いはこの人物、生まれたばかりの赤子にかかっていることを知っていました。ですから、"ひれ伏して礼拝をした"のです。彼らの罪のために、身代わりとなって苦しみを忍ばれることのために。
 私たちも、この方をひれ伏して礼拝しなければなりません。新約の時代に生きる私たちは、その救いの探求を、クリスマスの時の一時期のみでなく、「生涯をかけて」行なわなければなりません。私たちの人生が、この救いの探求を中心に回っているか否か、もう一度よく考えましょう。
 東方の博士たちは、そのことのために時を用いました。救い主の誕生を祝うために、彼らはいったいどれだけの時間を使ったのでしょうか?数ヶ月、あるいは年をもって数える程であったろうと思われます。私たちは、自らの救いのために、どれだけ時間を用いているでしょうか。残念ながら、新聞を読みテレビを見る時間はふんだんにあっても、聖書を読み、祈る時間はほとんどないというのが実状でしょう。その状況を変えるために、大切な一事があります。それは、聖書を読もうという"決心だけでなく"、生活のなかにそのような時間がとれるパターンをつくることです。一家の主婦でしたら、ご主人と子供さんを、それぞれ、職場あるいは学校に送りだしたなら、家事を始める前に、聖書を読む、というようにです。家事をはじめてしまったなら、もはや一日はあっという間に過ぎて、子供さん達が帰り、ご主人が帰り、食事だ風呂だ、…とばたばたし、とても落ち着くどころではないことでしょう。同様にそれぞれ自分の生活の中のどこかに、いつも聖書を読むということを組み入れておくのです。
 東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬を捧げました。何れも大変高価なもので、きっと、ヨセフがイエスとマリヤを連れて、エジプトに行く旅費となったものと思われます。何れにしても、彼らはその財を捧げたのです。私たちが、何かことをしようと思ったならば、そのためにお金を使います。自分の遊びのため、楽しみのためになら、稼いだお金を使うことを苦にしません。それと同じように、自らの救いを宝と考え、そのことのためにお金を使うことが必要なのです。地上に宝を蓄えても、天国にまで持って行かれないのですから、何で惜しむ必要がありましょうか。
子供さんに残すのですか?子供さんも自分で働いて食べていけばよいのです。
 あることのためにお金をどのくらい使えるかで、自分がどのくらいそれを大切だと思っているか判断できます。
 クリスマスの節季にあたり、私たちは東の博士に学び、自らの求めるものが、救いであり、そのために時を用い、お金を用いる者であるか問い直したいものです。