聖書研究
仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1996.8.27 から
ローマ人への手紙(第3回)
野澤 睦雄
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
(ローマ3:21~22)
- はじめに、前回の学びを要約します。
「救いの教理」の解説の最初の部分である「人間の罪について」学びました。これは言い直せば、「何故福音が人間に必要であるのか」ということです。パゼット・ウィルクスによるローマ書講演のこの箇所の分解は、私たちがその内容を理解する上において大変参考になりますので、ここに前回の学びの補遺として記載しておきます。 - ・補遺…パゼット・ウィルクスの分解「ローマ書講演」から
- 異邦人の罪(ローマ1:18~32)
・罪の原因は、人の神に対する態度の狂いである。つまり、
①不義をもって真理をはばむ(1:18)
②神を崇めずまた感謝しない(1:21)
③神の栄光を変える(1:23)
④神の真理を偽りととりかえる(1:25)
⑤心中に神を認めることを好まない(1:28)
⑥神の決定されていることを知りながら罪を行う。(1:32)
・罪の結果は
①"義、罪"についてこれを推し量ることができない(1:18~20)
②思考が狂う(1:21~22)
③心が汚れる(1:23~24)
④身体を汚す(1:25~27)
⑤思念(マインド)堕落の結果、様々の罪を犯す(1:28~31)
⑥自ら自分の罪に定める(1:32~2:1)
- ユダヤ人の罪(ローマ2:1~3:8)
<イ>ユダヤ人の責任(2:1~16)
・神の審判は
①真理に合致する(2:2)
②確実である(2:3)
③憐れみに適合する(2:4)
④怒りの日に行われる(2:5)
⑤各人の行いに応じる(2:6)
⑥善行には報償(2:7)
⑦悪人②は刑罰(2:8)
⑧律法を有するユダヤ人には律法により、異邦人には異邦人の心の律法により(2:1~15)
⑨福音に示された通りに(2:16)
⑩イエス・キリストによって行われる(2:16)
・ユダヤ人の有様は
①人を審く(2:1)
②審きを免れえると思っている(2:3)
③神の寛容と慈しみとを軽蔑する(2:4)
④頑なで悔い改めない(2:5)
⑤不従順で神に従わない(2:8)
⑥積極的に悪を行う(2:9)
<ロ>ユダヤ人の有罪(2:17~29)
…罪の特権について有罪
①選民であることについて有罪(2:17~、28、29)
②律法を有することについて有罪(2:17~、23、24)
③割礼を受けていることについて有罪(2:18~、25、27、29)
④道徳上の"師"たる地位について有罪(2:19~、21、22)
<ハ>ユダヤ人に関する疑義(3:1~8)
①ユダヤ人の長所は何か(3:1)
②割礼の益は何か(3:1)
③彼らの不信のため神の真実が損なわれるか(3:3~4)
④彼らの不義が神の真実を顕わすのであるなら、これを責めることは不義なのか(3:5~6)
⑤彼らの偽りによって、神の真理が顕わされるのであるなら、どうしてこれが審かれるのか
(3:7~8)
⑥そもそもユダヤ人はすぐれているのか(3:9)
- 結論…ユダヤ人も異邦人も皆罪人である(ローマ3:9~19)
①人は性質上で皆罪人である(3:10~12)
②人は言葉の上で皆罪人である(3:13~14)
③人は行為の上で皆罪人である(3:15~18)
神は実に長い時間をかけて人間に"人間の罪"を示されました。旧約聖書全体が罪の教示で あると言っても過言でありません。
「私は罪を犯しました。」と認め、罪の告白をすることが救いの門口です。多くの人は、「ええ、もちろん私は罪人ですよ。」とは言っても、「私は罪を犯しました。」とは言いません。「私は弱い者です。どうか助けて下さい。」とは言っても、「私は罪を犯しました。」とは言いません。
新約の基準に置き換えられた律法が、『それは罪です。』と指摘することを行ってしまったとき、「私は罪を犯しました。」と、"イエス・キリストが遣わした人の前で"告白することが、神に義とされる道です。
なぜ律法が必要なのでしょうか。それは人間が自分の罪を悟り、頭を下げてイエス・キリストの贖いに与る以外に救われる道がないことを悟るためです。
これがパウロの言う"ユダヤ人のすぐれたところ…かれらは神の言葉を委ねられています。" と言っている点です。- 2.2信仰によって義とされることについて
私たちは「救われました。」といって証詞しますが、このイエス・キリストによって"救われる"ということが、信仰による義が与えられることなのです。その内容をパウロは、ローマ人への手紙3章21節から5章21節までかけて解説しています。大別すると、その部分は以下の4区分で構成されています。
・信仰による義…その定義「イエス・キリストの贖いによる義」(3:21~26)
・信仰による義…それを受ける道は「信仰」(3:27~4:25)
・信仰による義…それを受けた者の神との関係は「愛」(5:1~11)
・信仰による義…それを受けた者に与えられる新しい「命」(5:12~21)- 信仰による義…その定義「イエス・キリストの贖いによる義」(3:21~26)
パウロはここで以下のような内容を示しています。
・律法とは別の神の義であること(3:21)
・律法と預言者(旧約聖書全体)によってあかしされた神の義であること(3:21)
・イエス・キリストを信じる信仰によって、信じるすべての人に与えられること(3:22)
・神の恵みによって、価なしに(つまり代金を払うことなく)与えられること(3:24)
・神が忍耐をもって見逃して来られた人間に、「イエスの血というなだめの供え物」を示して、「神ご自身の義」を示すものであること(3:23~26) - 信仰による義…それを受ける道は「信仰」(3:27~4:25)
信仰による義を受ける道は信仰であることを、パウロは以下の例を用いて説明しています。
①行いの原理と信仰の原理の比較
・義とされるのは信仰の原理による(3:27~28)
・割礼のある者もない者も、全て信仰によって義とされる(3:29~30)
②信仰の原理は律法を無効(廃絶)するものか
・信仰の原理はかえって律法を確立する(3:31)
③その例証(1)…アブラハムの例:行いの原理ではなく信仰の原理の例証
・働きの無い者に与えられるからこれは「報酬」ではなく「恵み」である(4:1~5)
④その例証(2)…ダビデの例
・行いとは別の道で神に義とされる(4:6~8)
⑤割礼のあるものにだけ与えられるのか
…割礼という儀式の有無でなく信仰のみによって与えられるということの立証
・アブラハムはまだ割礼を受けないうちにその義を得た(4:9~15)
⑥世界の相続人アブラハム…信仰の手本
・アブラハムの信じ方にならって、イエスを死者の中からよみがえったと信じるすべての者に、アブラハムと等しい「義」が与えられる(4:16~25)
そのアブラハムの信じ方は以下の内容です。
――自分の絶望的な状態の認知
(子を産むことに対してはもう死んだ体である。)
――神の約束実現への信仰
(神は死んだ体を復活させる力があると信じた。) - 信仰による義…それを受けた者の神との関係は「愛」(5:1~11)
パウロは、信仰による義を受けた者と神の間を以下のように解説します。
・神との平和を持つ(5:1)
・神の栄光を望む(5:2)
・艱難を喜ぶ(5:3)
その理由は、神が艱難を与えたもうのは、私たちの内に練られた品性を生み出すことであって、それが希望につながっているからです。
・聖霊によって神の愛が私たちの内に注がれる(5:5)
・私たちに神の愛が示されている(5:6~9)それは、私たちが罪人であった時に、イエス・キリストが私たちのために死なれたことによって示されています。
・御子の死によって神と和解させられた私たちは、御子の命によって救いに与る(5:10)
・神を大いに喜ぶ(5:11) - 信仰による義…それを受けた者に与えられる新しい「命」(5:12~21)
信仰による義を受けた者には、同時に新しい命が与えられることが示されています。
・アダムひとりから、すべての人間に死がもたらされたが、イエス・キリストひとりによって、すべての人間に「新生の命」がもたらされた(5:12~19)
・律法は罪を明らかにするだけの役割しか果たさず、かえって罪を増し加えるものとなったが、恵みはそれを越えて満ちあふれた(5:20~21)
以上から、「救われる」とは教理上、以下の2つの重要な事項を含んでいることが判明しました。
1.義認 2.新生
神はイエス・キリストの十字架によって、人にそれを示しておられます。人は信仰によってのみ、それに与ることができます。救いに与かった人は、神と愛の関係にはいります。
- 信仰による義…その定義「イエス・キリストの贖いによる義」(3:21~26)
- 2.2信仰によって義とされることについて
- 異邦人の罪(ローマ1:18~32)
- <今回の学びの結び>
- 十字架に、神は罪が必ず罰せられなければならないことを示され、そこに神の義が顕わされています。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架上で死なれ、それによって神はご自身の私たちへの愛を示されています。
頭を下げて、「私は罪を犯しました。」と十字架のもとに行く者を、神は救って下さるのです。「私は罪を犯した。」と知っている兄弟姉妹、それに対する悔改めは、「事務的に」行われなければなりません。罪の実感がないから、涙が沸かないからと留まってはなりません。それは、神が遣わされた人の前で実行されさえすればよいのです。罪の告白に当たって大切なことは、「私は罪人です。」と言うのではなく、「私は、いつ、どこで、だれに対して、どのような罪を、なぜ、どのように…行ったか」を述べることです。
それを実行すると、不思議なように神は、「私のためにイエス・キリストが血を流された。」と信じることを許されます。イエスが私の罪のために死なれたことを「経験」によって知ることは、神の愛を知り、神を愛する者となる道です。
その時、私たちは「新生の命」と「神との平和」を持ち、「キリストの平和」を心の内に持つものとなるでしょう。そこにキリスト者の幸せがあります。
(仙台聖泉キリスト教会員)