同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてくると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。

質問の送付先は
仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで
TEL:022-266-8773
FAX:022-266-8773(TELと同じ)

 今回も回答例を載せてみますので、自分の答えと比較してみてください。

前号の質問に対する回答
  1. キリスト教の書物や説教などによく出てくることばに「認罪」という一語があります。この「認罪」とはどういうことか説明して下さい。
    (回答)
     「認罪」とは"私は神に対して罪を犯した"と自覚することです。そしてそれは単に、私は罪を犯したと"知っている"ことだけではありません。知っているということだけについて言うなら、サタンも自分が神に対して罪を犯していることを、人間にも遥かにまさってよく知っています。認罪とは、サタンが罪を知っているようなものではないことは明白です。認罪には、自らを断罪すること、すなわち私は罪を犯したのであるから罰せられて当然であると思うこと、そしてそれを罰することができる神の権威の承認が含まれます。
     イエスとともに十字架につけられた強盗の一人は、「…われわれは自分のしたことの報いを受けているのだから当然だ。…」(ルカ23:41)と、認罪のことばを述べています。
     ペテロの例を取り上げて見ましょう。――彼がまだ漁師をしていたときのことです。夜通し漁をしたけれども魚が全くとれなかったけれど、イエスがやってきて、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。彼は、「先生、私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」といって、イエスのことばに従いました。そして大漁になったのをみて、彼はこう言いました。「主よ。私のような者から離れて下さい。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)――ここにペテロが、認罪を覚えていることが示されています。その直前まで、彼は宗教のことならこの先生にかなわないけれど、漁のことなら俺の方が上だというような思いがあったことでしょう。大漁を見た瞬間彼は、二つのことを理解したことが分かります。その一つは、"自分が罪深い者であること"、もう一つは、"イエスが主(神)であること、すなわち私の罪を裁くことがお出来になる権威をもっていること"でした。
     パウロとシラスが入れられたピリピの牢の看守は、パウロとシラスが夜中に祈りかつ讃美を歌っているの聞いていました。(使徒16:25) 大地震の直後、牢の扉が開いているのをみて、囚人が逃げてしまったと思い、自殺しようとしました。その理由は、責任を取らされて自分が囚人の代わりに処刑されると瞬時に考えたものと推測されます。「自害してはいけない。」と制止し
    たパウロの言葉によって、この看守は認罪を持ったことが分かります。彼の応答は、「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒23:30)との質問でした。
     ペテロは認罪を持ったとき、まだ救いの道を理解していませんでした。彼は「主よ。私のような者から離れて下さい。」(ルカ5:8)と言っています。ピリピの看守は、占いの霊にとり憑かれた女のことばによって、パウロとシラスが救いの道を伝える者たちである事を知っていました。ですから、彼は救いを求めることができました。
     以上のように、認罪は自らの断罪とそれを裁かれる神の権威を認めるものなのです。そして、非常に大切なことは、それが救いの入り口であることです。認罪を通して救いを求めることが、私たちが救われる上において最も重要なことです。
     「その方(助け主)が来ると、罪について、義について、さばきについて世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8) 世すなわち罪人たちに、聖霊が認罪を与えてくださるのです。これが次の質問である「先行恩寵」なのです。
     読者の皆さん、あなたはどんな認罪を持たれましたか?
  2. 前号の質問1.の回答にある、「先行恩寵」とは何ですか。その意味合いをもうすこし詳しく説明して下さい。
    (回答)
     先行恩寵とは、聖霊がその人の内に働いて下さり、罪を理解させ、認罪を持たせ、救いを求めさせ、イエスを信じることを得させて下さることです。救われていない人は、罪人すなわち"神に従わない者"、"神に敵対する者"であるのです。救われることによって、神に従う者となり、敵対関係から「神との平和」(ローマ5:1)を持つのです。「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させ」(ローマ5:10)られるのです。
     敵対関係にある者には、恩恵は与えられません。それが当然のことなのです。人間は救われる以前は、「全的堕落」をした者であって、その思いはかることはただ悪のみなのです。そのような者に対して救いにあずかる以前に与えられる恩寵なので、特に「先行恩寵」と呼びます。
質問
今月は以下の質問に答えて見て下さい。
  1. 「悔い改め」(マタイ3:2)とは何ですか
  2. 「悔い改めの実」(マタイ3:8)とはなんですか