同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書講義

— 昨日のサムエル記(その4) —

山本 嘉納

 家内は私にもう少しスリムになれと言う。それに対して、これ以上やせたらもててしょうがなくなると言い返す。また始まったという感じて彼女はあきれてそれ以上突っ込んでこなくなる。体のことを気遣っていると言ってくれるがそれだけではなさそうである。自分の夫が少しでも見栄えが良くなることを望むのが女性の心理のようだ。 私は、不謹慎と思うが天国に行ったら会ってみたい女性がいる。バテシェバとエステルである。一般的に人の好みには個性が強く反映する。ある人にとっては美人でも他の人にはそうでもないということはよく聞く話である。しかし、聖書の中でこの2人の女性に強く引かれた王は、すでに多くの女性を見ながらよいに付け悪いに付けその目は大変に肥えていたであろうからである。見てびっくりということにならないとも限らないが、ゆるされればぜひお話などしてみたいものである。不謹慎ついでにというのもなんだがある人から面白い話を聞いた。二人の同僚が酒を飲むと女性の話になる。そして決まって女房の話に行き着き決裂するそうである。一人は妻にする女性は見目麗しければそれでいいと言い、もう一人はやっぱり性格が大事であり知恵も必要だと言う。それぞれ結婚して20年以上経っているし後者にはお孫さんもいるそうである。私にするとそれぞれに自分の結婚とその後の夫婦のあり方に対する大いなる反省があるように聞こえた。前者には、夫婦お互いの心情的交流を大いに期待して結婚がなされたきらいがある。共に愛し合い助け合って夫婦生活は成り立っていくものと思っていたが現実は仕事の忙しさや夫婦間の人間関係の煩雑さに疲れてしまっているのである。いまさら特別期待することもなくただ毎日同じように自分のやりたいことがやれればいいし、いつもそばにいる女性であるなら美しいに越したことはないといったところである。後者は長い夫婦生活の中でお互いが磨かれ成長していくと期待し、特に自分の妻教育が自ら望んだ家庭生活と家庭環境を生み出すものと考えた。結果は前者と同じでそれほど確かな教育方針も信条も持たないゆえのもろさとその煩雑さのゆえに、最初からある程度持っていてもらわなければならないよい性格と知恵を望むようになっているのである。私は、現実の夫婦の正しいあり方というものを書こうとしているのではない。物事の見方や考え方でその人となりを垣間見れるということである。
 だいぶ前置きが長くなってしまったが今日、取り上げてみようとしているのは残念ながら女性ではなく男性である。サムエル記の大切な登場人物の一人のサウル王である。よく脱線する文章を書いているので1回で済みそうもないことをご理解いただきながらよくよく見つめていこうと思う。クリスチャンとして聖書を読んでいる方々10人にサウルというイスラエル最初の王を評価してもらうと必ずと言っていいほど10人全部が彼を残念な王として挙げるに違いない。彼に特別な関心を持たなくともダビデ王との関わりで何回かお話に登場してくる。敵役も重要な登場人物である。日本人は水戸黄門や遠山の金さん、ウルトラマン等、白黒がはっきりしているドラマが大変好きな国民である。正義はどこまでも正義、悪人はどこまでも悪人である。聖書は「義人はいない。ひとりもいない。」となっているが最初から結果がわかっている、そういうドラマは仕事や家事に疲れて観るにはうってつけである。登場人物や設定の違いはあるがいつもと同じようにストーリーが進み、主人公が悪を退治するか滅ぼして終わるのである。実に判りやすい。しかし、聖書のお話は決してそんなものではない。私たちの現実の生活もそんなものではない。それを正義だと誰が決めるのかと問われて、誰もが納得するような解答と結論を出すことは到底無理な話である。サウル王も実はこの大きな問題を含みながらイスラエル最初の王に選ばれたのである。彼がどのように王になったかはサムエル記に詳しく記されている。
 主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」(サムエルⅠ 9:15~17)
  神が選び、彼をイスラエルの王としたのである。それほどに彼はその時のイスラエルに王としてふさわしい人物だったのである。神が是としたものを人が否とすること、まして悪とすることなど出来るはずがない。それに加え同じ章の前半には彼が特別に美しく彼以上の者がいないとさえ書かれている。神の選びが容姿によってなされたはずもないが、人の本質は自然に外側に映し出されるものである。彼はなるべくしてなったイスラエル初代の王なのである。別の書き方をすればもし、私たちが同じ時代、同じ場所に生を受けたとしてイスラエルの王を選挙で選べばサウルに私たちの清き一票をきっと投じるのである。イスラエル国のその時の状態は今の日本によく似た危機的状態にあった。ペリシテという隣の強国に頭を抑えられている状態であった。以前には一度、確かにサムエルを先頭に戦って勝利しエベン・エゼル(讃美歌ではエベネゼル)に記念碑を建てた。しかし、この時は隣接する集落が少しずつ侵食され貢物を納めさせられていたであろうからである。働いても働いても生活は一向に向上せず他人に吸い取られてしまっていた。そんな折に頼みのサムエルがミツパに招集を掛けた。人々はペリシテに気付かれない細心の注意としかし、何かあるであろう期待に踊る思いと興奮を抑えるのに必死だったであろう。それは彼らの期待通り、イスラエル王の誕生の日であった。くじはサウルにあたった。歓喜の声と儀礼的贈り物が彼の前に山積みになった。何が送られたか私のような庶民は家に持ち帰ってすぐに中身を確認したくなる。しかし、このイスラエルの初代の王の前に山積みになっているのは贈り物だけではなく彼がやらなければならない数多くの仕事であった。
  私は父から仙台教会の牧師としての責任を受け継ごうとしている。すでに教会としての機能をきちんと持ち十分にその働きがなされている。それに加え来年で50週年という伝統もある。役員はその役割を十二分に知り、へりくだって若い新しい牧師に協力を惜しまない。経済的にも確かな後押しがあり教会員一人一人がその必要を進んで満たしている。教会と牧者の不足はあからさまにでなく隠れたところで心有る者によって補われている。ここまでに働かれた神に栄光を帰する者である。もし、ゼロからのスタートだったならどれほどの労苦であろうか。その困難とそれを建て上げるためのとてつもない不安を知るものは簡単に、サウルという王に失格者の烙印を押さない。無からイスラエル王国を生み出すために用いられた数々の手段に、私たちは果たして真偽を付けられるであろうか。サムエルも長老達もこの時、サウルのために宮殿を建ててくれるわけではない。政府もなく、常備軍もない。自分を護衛する親衛隊すらないのであるから誰がペリシテの刺客からその身を守ってくれるのであろうか。それらを支える税金を徴収することも現状では不可能である。第一、民族の結集すらままならない状態であった。やめた。やめた。誰がイスラエルの王などなるものか。良い事など一つもありゃしない。こちらから願い下げだ。そう言わなかったサウルはきっと大馬鹿だったのであろうか。あなたはどう思いますか。この仕事引き受けますか。
  続きはまた。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)