同労者

キリスト教—信徒の志す—

奨励

— 平和のきずな —

鈴木 健一

 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ人への手紙 4:1〜3)

 (エペソ人への手紙は)使徒パウロが、エペソの教会に送った手紙です。紀元61〜2年のことですが、パウロは今、ローマの獄中にいます(使徒28章)。割合ゆるい監視の下で、親しい人々との交わりはありましたが、それでも手には鎖がかけられて、看守であるローマの兵隊とつなげられています。きっと、使徒の働き18章から20章にかけてのエペソでの二年三ヶ月の伝道を、走馬灯のように思い起こしながらこの手紙を書いているのだと思います。
 一章から三章までには真の教会の姿が描かれ、四章から終わりの六章までは、そのような教会が建て上げられるには信徒はどのように生きればよいのかという実践的な面が述べられています。今日の箇所は、ちょうどその中間にあるお言葉です。

1 平和のきずな
 パウロは「召されたあなたがたは、その召しにふさわしくあゆみなさい」と勧告します。クリスチャンは、神様に救われただけでなく、召されたのです。何のために召されたかといえば、教会を建設するためです。
 教会の建設がここでは、「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と言い表されています。聖霊なる神様によってのみ可能な兄弟姉妹の交わりであり、一致であります。それは「平和のきずなで結ばれ」ることだと言うのです。
 ここで「平和」とはまず、クリスチャン一人一人に与えられている「平安」のことをも意味します。私は、おととしのこの祈祷会(06年2月1日)で、ピリピ人への手紙から「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ 4:7)についてお勧めしたことがあります。この平安は、イエス様がお持ちであった「平安」であり、それを私たちに残されたのです(ヨハネ 14:27)。
 それとともにこの「平和」は、兄弟姉妹との交わりの中での「平和」でもあります。相手との間の平和であり、争いのない状態です。二章には、イエス様の十字架によってこの平和があたられた、とあります。人と交わるためには言葉が必要であり、言葉にはその人特有の感情や知性が加わりますから、相手のことを思いやる工夫が必要になります。気持ちは純粋でも、きつい言葉で相手を傷つけてしまう場合もあります。毎瞬毎瞬、十字架の血潮を仰ぎながら、細心の注意と絶えない努力が必要になります。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ 5:9)とイエス様がおっしゃいましたように、平和は主にあって努力して創り出すものであります。そのようにして教会には、世の中にはない「平和のきずなで結ばれた」交わりが形成されるのだと、パウロは勧めているのであります。

2 謙遜の限りを尽くし
 平和のきずなを保つ秘訣は、「愛をもってたがいに忍び合う」ことです。イエス様の教会の最大の特徴は、神様からいただいた愛で、互いに愛し合うことでした。
 愛を持って忍び合う具体的な表れは、信仰者の「謙遜」です。「平和のきずな」は、一人ひとりが「謙遜の限りを尽くす」ことによってのみ保たれます。パウロは二年ほど前に、小アジアの港町ミレトで、エペソ教会の長老たちに決別の説教をしましたが、その説教の中で「私は謙遜の限りを尽くし」(使徒 20:19)と言っています。パウロは「謙遜の限りを尽くし」てエペソ教会を建てたというのです。それを今エペソの教会員全員にそうするようにと勧めているのであります。
 では、どうすれば謙遜になれるのでしょうか。ある人は、それは自分がどんな人間であるかという「自己像」から来るものといいます。私たち人間は神さまの被造物です。神にはなれません。被造物であることを徹底的に知ることは、確かに私たちを謙遜にします。さらに、私たちは罪人でありましたが、イエス様の十字架の贖いによって救われたものです。そのように自己像をもつことが私たちを謙遜にする、ということはうなずけます。
 しかし、私たちが謙遜になるために、このように自分を思い続けるだけでは十分でないように思われます。実際に感じる必要があります。パウロは今牢獄にいます。比較的自由な二年間であったとはいえ、エリートであり、活動かであったパウロにとって、時にはやりきれない思いが掠めなかったでしょうか。60歳の、からだも昔のようには動かないパウロが、若い伝道者や医者ルカの世話にならざるを得ないのです。奴隷のオネシモにすら、心ならずも面倒を見てもらって、「ありがとう」と言わざるを得ないのです。惨めな思いが去来しなかったでしょうか。しかし、人生でこのような境遇に置かれることが、実は謙遜を学ぶ大いなる機会なのであります。じたばたしないで、主にあって、謙遜を積極的に学ぶのであります。1節の「主の囚人である私」というパウロの自己認識の言葉は、このことを指しているように思われます。単なる「囚人」ではない。パウロは牢屋に入ることによって、自分は「主の囚人なのた」という積極的な自己認識にまで成長したのです。そして、一層謙遜になったのであります。
 私は60歳を超えてから大病をし、生まれて初めて長期の入院をし、勤めを休みました。それからもう8年になります。この期間に多くのことを学びましたが、霊的な面で一番おおきい学びは、謙遜になるということだったかもしれません。お医者さんは無論のこと、妻にも周りの人にもお世話になり、大きな迷惑をかけてしまいました。私はそれを、「ありがとうございます」といいながら、受け入れるしか道がありません。お返しのしようもないです。電車の中でも、年寄りが弱々しそうに立っているものですから、しばしば席を譲られました。そして本当にありがたかったのです。しかし、にもかかわらず、それらすべての人の親切に対して、心から「ありがとう」というには、私には飛躍が必要でした。プライドに引っかかるのです。私の側から意識的に、謙虚になろうとする努力が必要でした。そして、妻に対しても、電車の中の青年に対しても、謙虚に「ありがとう」といったとき、その場は和やかな雰囲気になるのに気づきました。そこには「平和」が現れたのです。パウロは牢獄の中で、積極的に囚人になりきったのではないでしょうか。自分から身を低くしたのではないでしょうか。そして、イエス様の地上での僕のお姿を、改めて実感したのだと思います。9節にはこんな言葉が、付け加えられたように書かれています。「この『上られた』という言葉は、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょうか。」
 私たちは人々の間で現実に低い位置に置かれることによって、先に述べた自分が被造物であり贖われた罪人に過ぎないということが、一層深くわかり、「謙遜」を学ぶのであります。そして、この謙遜こそが、平和のきずなを守る第一の条件なのです。

3 柔和と寛容
 この謙遜を持った人の外側に現れる姿が「柔和」であり、「寛容」であります。イエス様の柔和なお姿には、弱っている人も、女性も、子どもたちも惹き付けられました。柔和とは軟弱なことではありません。内側の強い人、自立した人だけが持てる性質です。毅然としていて、しかも柔らかいのです。そして最後には、柔和な人が勝ちます。イエス様は、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5:5)とおっしゃいました。教会建設には、すなわち御霊による平和を保つには、どうしても必要な姿です。特に教会に新しく来られた方や、若い人には、柔和に接するべきであります。
 寛容とは、はらわたが長いことです。やたらに怒らない。相手の人の少々の欠点に、直ぐには反応しないことです。簡単に人を裁かない。しかし、鈍感とは違います。懐が深いことです。繊細な心を持っていて、相手の言うことを深いところで受け止められる。  このような柔和や寛容は、聖書は「御霊の実」といっています。神様が下さるもので、生まれつきの人間にはないものです。私たちの教会員がしっかり結び合わされ、もう一つ上の段階に上るには、私たちが召されたものとして、「その召しにふさわしく歩む」ことであります。

(インマヌエル大宮教会 会員)
(6月4日の祈祷会に牧師留守のため代わってされた奨励とのことです。編集委員)

Valid XHTML 1.0 Strict