同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第32回) —

野澤 睦雄

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 預言者についての、エーリヒ・ザワーの解説の紹介をもう少しつづけます。
(「世界の救いの黎明」:いのちのことば社、1975年3月25日 改訂再刷p.229以下から引用。——抄録ですので、詳細には原書を参照してください。)

3 預言者は<ものみ>である。
 「わたしはわたしの見張り所に立ち、やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見よう」。
 高いものみから、預言者は<現在>を見ることができる。「わたしはあなたがたの上に見張り人を立て『ラッパの音に気をつけよ』といっった」。歴史の人である預言者は、歴史的に制約された形で、歴史の人に語る。同時代の人間として預言者は、その時代を基として、その時代の人に語る。それゆえ預言者は人々をいましめる者であり、王を監督する役人であり、社会の良心であり、社会の番人であり、また「牧者」である。
 しかし、ものみである預言者は、<未来>をも展望し、そして審判と完成とを見る。まとめてみると、預言者は民衆の相談役であり、良心であり、目であり、耳であり、監督である。

4 預言者は<神の人>である。
 彼らは<神に聖別された>人すなわち「聖者」である。聖別されない預言者(たとえばバラム、・・)は例外であって、神の永続的なしもべではない。なせなら、神は口ばかりでなく、心をも求められるからであり、その働きではなく、働く人をも求められるからである。・・。
 しかし、「神の人」としての彼はまた、<個人>である。なぜなら、神は人間性を除こうとせず、それを変貌させようとされる。神は人間性を消去しようとされるのではなくて、それをご自身の御用に用いようとされるのである。奴隷ではなくて友をのぞまれる。媒介ではなくて、実に<人>を求められる。
 したがってわれわれは、牧者アモスにより田舎の絵画的なことばを見、国務大臣であったダニエルにより国家的預言を見、祭司ゼカリヤをとおして神殿を建てる命を受けるのを見、やはり祭司であるエゼキエルによって未来における祭司の礼拝の叙述を見る。
 また個人的な気質や性格に関しては、激しやすいアモスとイザヤとは、かみなりのような言葉を用い、気うつなホセアとエレミヤとは悲嘆を帯びた語調で語り、詩人ハバククの言葉は詩篇に似た詩である。
 時には預言者個人名そのものが、その使命の表現であり、標語である。たとえば旧約の<福音記者>であるイザヤは、「主は救いを与えられる」との意味であり、再興のモーセと言われるエゼキエルは、「神は力を賜う」との意味であり、世界歴史と世界審判とを預言したダニエルは、「神は審判者である」という意味である。
 また預言者の神から与えられた使命は、しばしば同時代の事件に制約されている。旧約の預言は決して地につかない単なる空中の電線ではない。その多くはむしろ、その時代あるいはそれからすぐ近い未来の出来事と人物のことを述べている。一定の情況から預言者は、一定の情況にある人々に語る。しばしば彼らの使信を伝えるのに、自分の環境の形象を使う。すべてのものは歴史的に制約されていて、しかも同時に永遠に貫かれている。すべては人間的であって、同時に神的であり、時代的であって同時に超時代的である。
 彼らはアッスリヤの災厄について語り、それと同時にインマヌエルについて語る。エジプトからの脱出について語り、バビロン捕囚の際のラマの嘆きについて語る。同時に彼らはメシヤの幼時歴史について預言する。彼らはバビロンからの帰還を語り、同時に未来における平和の王国開始のときに、イスラエルが集められることを約束する。彼らは終末の時の神の国の来臨を語り、同時に新しい地と万物の最後における完成の栄光とを描く。
 このように預言者はあらかじめ<預言する>。預言が行いという形をとることを<言葉>で約束する。それ自体が預言であるような出来事を、彼らは預言する。もしそれが成就すれば、それは救いの影像であり贖いの保証であって、どうしても<完全に>成就しなければならないようなことを預言する。これらすべては預言者たちの永遠の使信を歴史のいかりにつなぐものである。
 神の霊に感動して書く聖書記者は水がただ流れ込んで流れ出る水路のようなものではなくて、むしろ吹奏楽器のようなものである。流入流出する水は、感や水路から得殊の性質を取り入れない。しかし吹奏楽器の場合には、その種類——フルートであるとかホルンであるとかトランペットであるとか——に応じて同じ奏者の同じメロディにそれぞれ独特の音色を与える。またあるいは預言者はペンのようなものである。同じ記者が同じ文を書いても、ペンの太さや細さが字体にさまざまの異なった外観を与えるものである。
 このようにどの預言者も「<預言者>としては彼の神のしるしを帯びているが、<人間>としてはその時代のしるし帯びている。・・おのおのがそれぞれ主の「口」であるが、その咽喉(のど)からでる音は高かったり低かったりする。声の音色と強弱とは個人個人によって異なるが、その合唱団はおどろくべきハーモニーを創り出す。それはその作曲者がただ一人だからである。」
 予言の歴史は七つの時期を経過する。
(1) 最初の時期。アダムからモーセまで。
(2) モーセからサムエルまで。
(3) サムエルから記述した預言者たちまで。
(4) 記述した預言者、ヨエルからマラキまで。
(5) 神の沈黙。マラキから新約まで。
(6) キリストの予言的伝道。
(7) 教会の中の預言。
 次にメシヤ王国によってすべての予言が成就し、したがってすべて特別な予言のやむすばらしい時期がくる。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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