同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出(2) -

秋山 光雄

第1部  私の見聞きした思い出集(つづき)

再び再婚話

 それは1942年か1943年ころだろうか。再び再婚話が持ち上がった。それは自分の牧する浅草千束教会の信徒である“小川わか”だった。「10歳も若い初婚の人が、4人も子供のいる貧しい自分のところへ来てくれるなら助かるには助かるが、あまりにも申し訳なく気が重かった。」ある日、二人で話しているとき岩次郎の心にひらめくメッセージがあった。「そうだ。私は外側ではなくこの人の魂をとことん愛していこう。」このようにして1月29日、二人は結婚したのである。
 (二人の間に1944年、望が、1948年、進が誕生し親子8人家族となるのである。)
 その後の岩次郎は、時の東条内閣による“教会解散令”により牧師職を奪われ、仙台の軍需工場で働くことになる。敗戦を迎えると、後妻・わかの実家、千葉県中山にしばらく住んだ。敗戦間もない1945年秋、中田重治監督の神学校の同級生であり、その後も同じホーリネス教団、聖教会で奉仕を共にした蔦田二雄らとイムマヌエル綜合伝道団の創立に関与した。

 

 --- ここでは、年代の順序が重複したり不正確な記憶もあると思うがあえてその間、聞いた断片的な物語のいくつかを記してみよう。

 

イムマヌエル綜合伝道団の創立

 蔦田二雄は1943年6月26日“治安維持法”の嫌疑で2年ほど投獄された。釈放された後は青山学院の教授をしていた。敗戦前後、岩次郎は妻の実家、千葉県の中山に住み、心身の傷の癒(い)えない蔦田を時には自宅に招いたり物を送ったりして交友を暖めていた。
 岩次郎は、蔦田の新教団設立(創立は1945年9月26日)に当たりいち早く共鳴、協力した。新教団創立には医師の長谷川正子、元子姉妹の強力な財的支援のもとに蔦田夫妻、山本夫妻の6人が、その病院のある千葉県船橋市に本拠を構えて旗揚げしたのである。すると、戦前の同労牧師、また、復員して戻ってきた牧師、共鳴して参加した牧師などが、戦後の混乱期にいち早く活動を開始したイムマヌエル綜合伝道団に次々と参加してきた。しばらくして船橋の松川亭で開拓大伝道会を開いたのである。本部教会の主任牧師は蔦田二雄、副牧師に山本岩次郎が当たった。

山本岩次郎牧師の荒川教会開拓

 蔦田と共に新教団で戦っていた岩次郎は1948年の春、蔦田と離れ新教会開拓の幻を与えられた。祈っていたとき、「汝等(なんじら)はこの山を行きめぐること既(すで)にひさし今より北に転(めぐ)りて進め」(申命記2:3文語訳)が示された。始めはこれを霊的な意味と思っていたが「本部教会を離れて新しく転身すべき」と導かれたのである。岩次郎によれば、三河島(みかわしま)がどこか全然知らずして、とにかく北というから北にと思って荒川区に導かれたという。そこには幸い油井武志という熱心な信徒が備えられていたのである。諸準備が整って開拓伝道会を開いたのが同年5月25日だった。(ちなみに5月25日は岩次郎の誕生日であり、1952年会堂献堂式の日であり、この日が、開拓伝道会を記念した荒川教会創立記念日ともなるのである。)荒川区三河島に来て最初の住まいは某医師のお宅と聞いている。その後、油井武志の隣接地を借用して住居兼教会を建てて移住したのである。屋根瓦の代用に50センチ四方の木片が敷かれ飛ばされないように石の塊が置かれていたお粗末な建物だった。教会開設に当たり油井が蔦田牧師に看板を求めたところ蔦田の、「荒川伝道所でいいですか?」との問いに、「いや。伝道所ではなく荒川教会とかいてください」と頼んだという。そこにも油井の信仰があったと思われる。

果敢な伝道活動

 当時40歳前後の岩次郎の果敢な伝道活動は目を見張るばかりだった。宣教師の応援を頼んでは大型自動車に横断幕を張り、屋上のステージからスピーカーを使っての移動伝道が繰り返し行われた。同じく車上にスクリーンを張っての映画伝道、わずかな信徒を従えて得意の路傍伝道と連日連夜、伝道に明け暮れたようである。その中から選ばれた人たちや以前から関わりのあった人々によって荒川教会は最初の時代を形成したのである。もちろん敗戦後のキリスト教ブームも伝道に役立ったことも事実と思える。

筆者と岩次郎牧師との出会い(1949年12月12日)

 私が初めて岩次郎牧師に会ったのは、1949年(昭和24年)12月12日の月曜日午後5時ごろであった。それは、誘われて初めて出た、勤め先の東京中央電信局の図書室で行われた聖書研究会である。今でもその時の印象がかすかに残っている。窓明かりを背に牧師をコの字型に囲み数人の兄姉たちが座っていた。私を誘ってくれたのは加藤五平という先輩だった。確か、リーダーは年配者で課長だった小田清志、ほか樋口道雄、田沼清子、原田仁四郎といった人たちもいたはずだ。(なお当時の人たちで露久保定吉、藤波幹子、小久保和子といった人たちの名前を覚えている。)
 岩次郎牧師はその日、マタイ伝福音書14章からイエスの海上歩行の話をされた。「風逆らうによりて波に悩まされいたり」の説教は、鋭く私の心を打った。
 貧しく複雑な家庭の中から母親を救い出そうと横浜の中央郵便局に就職したのは1947年4月だった。翌年、東京逓信講習所に、卒業後は東京中央電信局に勤めていた。立身出世をするためには学校を出なければと当時の夜学(日大三高、法政大学中退)はほとんどいい加減なドサクサまぎれの夜学生活だった。しかし戦時中の国民学校しかでていない学歴の私には、いくらドサクサの潜り入学とはいえ、ついて行けるはずはなかった。特に法政の夜学に入ったもののお手上げの上、月謝が溜まり、通学が苦痛になりずる休みも多くなった。放棄したら夢はなくなるし、戦後の食糧難、生活苦に追いつめられニッチもサッチも行かず人生の立ち往生の状態だった。
 「風逆らうによりて波に悩まされいたり」の弟子たちの状態は正に私の姿そのものだった。「しかし主イエスは山の上で弟子たちのために祈っておられた。そして弟子たちに近づいて来られた。イエスさまは私たちの窮状を知っておられ近づいてくださる・・・。」このメッセージは私の心に大きな慰めとなった。ほどなく迎えたクリスマス会に私は歓迎されて出席した。ガウンをまとったメンバーの聖歌隊を羨望(せんぼう)の眼で見つめたこと、交換会で小形聖書をいただいたことなどが目裏に浮かんでくる。それから聖書研究会には欠かさず参加したのである。こうして私の信仰人生は始まった。時に19歳と1ヶ月だった。

電車の中の教会案内

 当時、私は日曜も出勤だった。ある日の聖書研究会の帰り道、岩次郎牧師といっしょに電車に乗った。「日曜礼拝に出られなかったら夜の伝道会にいらっしゃい。」こう言って岩次郎は満員電車の中で頭上にカバンを高くあげ、それを下敷きにして教会の案内図を書いてくれた。周りの目も気にしない岩次郎の一面であった。

苦闘時代の話

 献身者時代またその後を通じて、私ほど岩次郎牧師に呼ばれ、使われた者はいないと思う。一つは岩次郎牧師の按摩(あんま)役の最適任者だったこと、それに呼びやすく、使いやすい性質があったためと思われる。それはともかく按摩役をしながら誰よりも岩次郎牧師の人生談を耳にする機会を持てたのも私だったのではないだろうか。しかし、聞いた話を正確に覚えられないのも私の欠点であるので、多少の食い違いや主観を覚悟で、岩次郎牧師の思い出の幾つかを書いてみよう。

野付牛(現・北見市)時代

 1932~34年(昭和7~9年)岩次郎は北海道の野付牛(のっけうし)の牧師だった。若くて血気盛んで正義感の強い彼は、教会内にあっては痛烈な神の審判と再臨の説教で信徒を震え上がらせ、教会外にあっては銀行の壁に寄りかかりながら、集まって帰り行かない群衆に大声で路傍説教を続けた。「誰も帰って行かないので説教を止めることができなかった」のだそうだ。その結果、40名ほどいた信徒は牧師の厳しい説教に恐れをなして教会を離れてしまい、ついには誰も来なくなってしまった。
 行き詰まった牧師は誰も来ない教会の扉に鍵を掛け、もんもんの日を送らざるを得なかった。当然、食うに困るようになった。その当時、少し働けば何とか食べてゆけることはできたが、どんなに苦しくても邪道でパンを得てはならないと教えられ、その信念から空腹を耐えた。長女は隣家に遊びに行って帰らない、そこでは何らかの食べ物がもらえたから。生まれたばかりの長男は栄養失調で母乳の出ない母の乳房にむしゃぶりついていた。
 そんなある日、散歩から帰った牧師は、怪我をして血を流している長女を見た。とっさに岩次郎は、妻の、「ごめんなさい。私のそそうでけがをさせてしまいました」というわびの言葉を期待したが、その言葉はなかった。その夜やりきれない妻への怒りを覚え、一つ一つ妻を裁きはじめた。「そういえば、あの時もこの時も・・・、何て頑固で、冷たいやつだ」と。
 そのときである、聖霊は鋭く岩次郎の心に迫られた。「その頑固で、冷たいのはお前だ」と。その瞬間、神の裁きを感じた牧師は、綱を切られて落下していくエレベーターのごとく地獄に落下してゆく自分を感じた。急にエレベーターは止まった。それは差しのべられた主の十字架の幻だった。岩次郎は即座に自らの罪と十字架による救いと魂の潔めを感じた。それは、まさに預言者ナタンの直言を受けたダビデそのものの経験だった。それは1933年11月11日のキヨメの経験だったのである。キヨメとは、漢字では「聖潔」と書き、生まれ変わったクリスチャンが持つさらに高い次元の宗教(信仰)経験のことをいう。

 (以下次号)

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