同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 真の神であり真の人であられるイエス —

すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。・・・あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』」(ルカ 9:30-33)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ 1:14)
「その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。・・・その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた。」(黙示 19:13、16)

 イエスが真の神であられると同時に真の人であられるということが、キリストを信じている人々の共通の理解です。それに異論を唱える人は、キリスト者とは言えません。しかし、・・こういう述べ方は、論説に相応しくありませんが・・筆者がそれを正しく理解できるまでに長い年月がかかりました。長い間持っていたキリスト像は、半分は神であられ、半分は人であるお姿でした。ですから、イエスが神殿をたずねて律法学者たちの教えを聞いて学んだように、学習される必要があったことが奇異に感じられました。彼は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ 8:58)と言われた方、「イエスは彼らの心の思いを知って言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。・・・』」(マタイ 9:4)と書かれているとおり、人の心の様、その理解していること、その思い、その意図していることを知っておられる方であるからです。
 数十年の信仰生活を経て、筆者の持っていたキリスト像は変わりました。「イエスは真の人間であられた」と。
 よく、どこを切ってもと表現されますが、イエスは、いかなる断面で捉えても真の人間であられました。母の胎にやどり、胎内で成長し、月が満ちてお生まれになりました。お生まれになった後もすべて人間であられました。知力も知識も能力もすべて人間のものであられました。人の能力を超えた業をなされましたが、それはすべて聖霊によるのであって、人間も神のお許しがあるなら同一のことを聖霊によってできるのです。
 人は「霊、たましい、からだ」(テサロニケI 5:22)から成る存在です。イエスの霊は神であられました。それ以外に人と違うところはありません。
 クリスマスです。真の人となられた「神のことば」であるイエスを礼拝し、その恵みと真に触れさせていただき、「王の王。主の主」であるお方を讃美致しましょう。

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