同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出 -

秋山 光雄

はじめに

 私の孫が中学生になったころ、3年ほど前になるが、「曾祖父である山本岩次郎牧師のことを伝えて欲しい」と、その母親、すなわち牧師をしている私の息子の妻である「みさ」さんから要望されていた。私の見聞きした思い出を中心に綴ってみることにした。ただしこの記録には年月日を始め、うろ覚えのための記憶違いや、見方や人によっての判断の違いもあろうかと思われる。従ってそのための記録責任は一切、私にあることを諒(りょう)とされたい。
第一部では敬称を省略した。

2009年1月 秋山 光雄

第1部   私の見聞きした思い出集
第2部   荒川教会の週報抜粋集

第1部  私の見聞きした思い出集

山本岩次郎牧師 (1911~1984)の生い立ち

 岩次郎(いわじろう)は1911年5月25日、新潟県佐渡郡相川町戸地(現・佐渡市)に姉と兄と妹の4人兄弟の次男として生まれた。実家は弥平という屋号を持つ貧しい家だったそうだ。当時、村では一軒一軒それぞれ屋号を持っていたという。父親は、山本市蔵といって木挽(こびき)業から炭焼きをやっていた。村一番貧しい父・市蔵は酒を飲むと貧乏ゆえバカにされる屈辱を歯ぎしりして悔しがった。母親は“たか”といって中産階級の出であった。
 岩次郎は15歳で大工の見習いを始めていたが、17歳のとき建築現場から転落し大けがを負ったが一命は取り留めた。そんな中を東京に出て一旗揚げようと、その年の5月にはいとこの紹介で上京し、駒込にあった大工の棟梁宅に世話になることとなった。そして9月には夜学の早稲田工手芸学校建築科に入学した。昼は働き夜は学校で学びと、心身疲労の明け暮れだったという(年齢17歳のときであった)。
 そのころの岩次郎の悩みは自分の心の偽善であった。そして少しでも正しい人間になろうとして哲学や立志伝などを読みあさったが、解決できないどころかますます自分の意志の弱さに失望するばかりであった。

上京秘話

 岩次郎は生まれて初めて、寒村の佐渡から(現在に比べれば問題にならない粗末な小舟で新潟に着き)大東京の上野に降り立った。「東京は田舎者には恐い所だからだまされないように、上野に着いたら人力車で宿まで送ってもらえ」と言われていたので、人力車を頼んだところ目的の宿は直ぐ近くだった。人力車の人夫に払うのがあまりに少ない賃金だったので、申し訳ないと思った岩次郎はお釣りも受け取らず赤面して車を降りたそうだ。それにしても佐渡から上京する人たちのまれな1920年頃の時代に、田舎の若者が人力車に乗って東京に乗り込むなどよくも大胆にできたものだ。

キリスト教に出会う

 昼は大工の小僧として働き、夜は早稲田の専門学校(?)の夜学に通っていた。そんなある日曜日の夕方、夜学がなかったので、下宿に戻る電車の中からキリスト教の路傍伝道を見つけ次の駅で途中下車し、それを見ていた。
 証しに立った一人の信徒姉妹が、「私は隠れた心の偽善に悩んでいましたがイエスさまを信じて救われました」と証しする言葉に心を打たれた。(その姉妹は有名な、「新約の聖潔」の翻訳者、大江邦治牧師の娘だったという。)路傍伝道が終わるや、「どうぞ教会へ」の声に誘われるまま付いて行った。平屋風の集会所だったという。説教者は丹羽平三郎、司会者は森本精一牧師だったと、荒川の週報に書いてある。
 説教が終わって一人の神学生、岩堀光次が近寄ってきて個人伝道を始めた。罪を問われたとき、自分はまじめで罪など無いと思っていた岩次郎は、岩堀にマタイ5:28「すべて色情を懐(いだ)きて女を見るものは、既(すで)に心のうち姦淫したる者なり」(文語訳聖書)、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(新改訳聖書)という聖書の箇所を示し、「あなたはこの罪を犯しませんでしたか?」と言われ、それには参ったと素直に罪を認めたところ、彼は、十字架の救いを受け入れるように勧めた。岩次郎の心には、信じて罪赦された喜びが洪水のごとくあふれてきた。その夜覚えた賛美歌、
 ひとたびは我も罪をつくりて
 迷い行きし身なれども、
 今は救われて主のみ手にあり
 日々叫ばんハレルヤと。
 み恵み深き主に栄えあれ
 今も後も限りなく、
 来たれ同胞(はらから)よいざもろともに
 日々叫ばんハレルヤと。
 これを歌いながら夜遅く家に戻った。これが救われた18歳の1927年11月11日夜のことであった。

神学校入学

 20歳頃の11月、中田重治監督の神学校に入学した。蔦田二雄(つただ・つぎお)も同期生だった。当時ホーリネス教団では牧師とは言わず、「福音使」と呼んでいた。当時は世界的経済大恐慌の波で貧困と娘売りがちまたにあふれ、社会不安が世相を暗くしていた時代で、人心は不安のただ中にあり、キリスト教界には再臨思想の嵐が吹きまくっていた。その意味では伝道も好機でもあったと思われる。神学生は十分な教育を受けぬまま各地に派遣された。岩次郎も、1年半の教育で22歳の4月結婚し最初の任地、北海道野付牛に派遣された。この任地での奉仕は3年間だったが大きな試練の3年間だった。この地で長女・寛子と長男・光明が生まれるのであるが、この試練の出来事は後日の「野付牛(現・北見市)時代」の項目に譲る。

徴兵検査

 徴兵検査というから20歳前後のことと思われる。呼び出されて行った検査場で即時帰郷せよということになった。理由は、肺に影があり、いわゆる結核であるとされた。ところが帰された後から影は消えていたという。そんなことで軍隊に入ることは免除されたのである。もし合格し軍隊に入ったなら、あるいは牧師の道は閉ざされ、命さえどうなっていたかも分からない。これも神の見えざる、ご配慮であったのかもしれない。

恋人の連れ出し

 話は前後するが、佐渡の戸地には相愛の人がいた。村一番の貧乏な家の息子が、相手はこともあろうに村一番の金持ちの家の娘であった。それは牧師になったころかと思われるが、ある日大胆にも周囲の反対を押し切って彼女を東京へ連れ出したのである。昔のこと、それも佐渡の田舎という閉鎖的な村のこと、大きなうわさになったことは間違いない。連れ出す方も連れ出される方も大胆なことをやったものである。

妻の死

 長女・寛子、長男・光明と年子の次に3年後に生まれたのが次女・継実(つぐみ)である(後にこの次女が筆者の妻となる)。さらに3年後三女・恵が誕生する。4人の幼子を残して母が亡くなったのは浅草千束の教会時代だったと言われる。継実が入学前というから多分1940年か41年ころだと思う。厳しい生活が体を傷めたのか胸の病のようであった。継実には、最後の別れと言って抱えられながら棺の中の母をのぞいた記憶がわずかにある。葬儀のとき、岩次郎はだれが来てくれたかも分からないほど泣き崩れていたという。若い母親も、どんなにか行く末を案じながら亡くなったであろう。いずれにせよ戦時中、しかもキリスト教が敵国宗教としてにらまれている時代、貧しい中を若い牧師4人の幼い子供を抱えて生きねばならなかったのである。やむなく、寛子、光明のふたりは手元に置き、継実と恵は母方の佐渡の実家に預けることになった。そのとき、継実はまだ未就学児であった。

再婚話の決裂

 厳しい現実に先輩牧師たちは再婚話の後押しをしてくれたようだ。4人も幼子のいる貧しい岩次郎に来てくれる人がいるわけはない。そこで佐渡の実家では妻の妹を後妻にと配慮したようだ。その再婚話がまとまりかけたとき、うまくまとまれば預けてある2人の幼子を引き取るつもりだった。ところが出された再婚の条件は、「牧師を辞めて佐渡に戻り、発電所に勤める」ことだった。「それは絶対にできない」と岩次郎は断念の腹を決めた。
 岩次郎の後日談によると、そのとき継実は、父と暮らせる話にちょんちょん跳びをして喜んだ。だがその子に、「話がだめになった。もうしばらくおばあちゃんの家に居ておくれ」と、断腸の思いで告げたところなんと継実は、「うん」と言った。むしろ、「嫌だ、嫌だ!」とだだをこねられた方が救われたのに、「その素直さにかえって私は号泣させられた」とよく述懐していた。

涙の別れ

 再婚話の決裂に岩次郎は2人の幼子を残して再び戸地を後にするのだった。家の前のバス停でバスを待つのは双方にとってつらいので一つ先のバス停まで歩いて行くことにした。岩次郎の母親は、「こんな悲しいことって、あるかえ!」と泣きながら後を追っかけて来た。トンネル一つくぐれば戸地は見えなくなる。「帰ってくれ。帰ってくれ!」という岩次郎の声に後を追いかけてきた母親もトンネルを前に後追いをあきらめた。トンネルを抜けると、そこには小川がある。岩次郎はその小川に降りて涙を洗い流して歌ったのである。
「主よ、み手もて引かせまえ。ただ我が主の道を歩まん。いかに暗く険しくともみ旨(むね)ならば我いとわじ。」

 (以下次号)

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