同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— ウィリアム・ブース <救世軍の創設者> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/kidakei/
にアクセスすると元の文を読むことができます。>

 60年間の活発な奉仕の間に、救世軍の創設者であるウィリアム・ブースは、六万回以上説教を語り、新兵を募り、世界の55の国々に、二百万人の救世軍士官を展開した。
 幼い時に父親が死に、困窮し打ちひしがれた家庭に育ったウィリアム・ブースが世界的に認められる人物になった。彼は、英国人ではあったけれども、1898年に、アメリカ合衆国の上院において、開会の祈りをささげるよう依頼された。また、彼は、日本の天皇のような人物に、受け入れられた最初のクリスチャン指導者であった。
彼は、正規の教育をほとんど受けていなかったが、オックスフォード大学から名誉学位を授与された。彼は、ドイツや、パレスチナ、オーストラリア、ニュージーランドなど、あらゆる大陸と、島々の救世軍の働き人を視察し励ました。
 しかし、その様に認められるまでは、容易なことではなかった。彼は、富む人々からは批判され、スラム街の住人からは罵られた。彼が、初期の救世軍の部隊の働き人と共に、酒場や売春宿の前で、説教しはじめると、ごろつき達が集まって来て、人々を扇動し、説教を中断させたり、できることならやめさせようとした。ブースと部下たちは、しばしば、血まみれの顔、卵をぶつけられて汚れた制服という姿で、宿舎に帰って来た。しかし、彼らはその様にし続けた。様々な場所で、「その地区の最も柄の悪いごろつき達からなる大酒を飲んだ一団が現れ、つけまわし、無防備な救世軍士官たちにひどい仕打ちをした。行政は、警察の保護を差し控えていた。治安妨害は、全く彼らの敵が引き起こしたものであるのに、救世軍士官は、咎められ、しばしば留置所に送られ、罰金を科せられた。」(Religious Tract Society) 最近のAP通信の特電は、「かつては、あざける快楽主義者達が、酒場の前で歌っている彼らに燃える石炭や死んだ猫を投げ付けた。少なくとも、彼らは、注目されていた。今日、救世軍の将校は、彼らの説教に関する大衆の無関心に嘆いている。」と伝えている。 売春業者達がブースに反対したばかりでなく、彼の宗教上の方法が英国教会の鈍感で時代遅れのやり方とあまりにも対照的であったので、高名な聖職者達やその一党が彼を公に非難した。シャフツベリー卿は、救世軍は、「悪魔のまやかしで、…キリスト教を馬鹿げたものにしようとしている。」と息巻いた。
しかし、多くの貴族達がしたように、ヴィクトリア女王はブースと会い、その後継者であるエドワードⅦ世は、汚名をそそぐ助けをした。王に謁見するために王宮に招かれた時、ブースは、通常は正式のフロックとコートの着用が求められるのに、救世軍の軍服を着用する特権が許された。また、異例の事であったが、国王がブースの手を取って握手をされ(決してその様な事はされない)「あなたは、良いお仕事を、偉大なお仕事をしておられます。」と言われた。
今や、疑いもなく、ブースは、彼が、魂を獲得し自由にする働きを始めた東ロンドンにおける名声を確かなものとした。
 しかし、人を救うメッセージを語る前に、ブースは(他の誰でも同様であるが)、救いが彼自身にとって真実なものとして体験されねばならなかった。ハロルド・ベッグビーは、その著書「ブース大将の生涯」の中で、ブースの体験を次のようにまとめている;「いかなる回心も、(彼の体験と比較して-訳者注)より単純で、より劇的で、より自然である事はできない;長い、キリスト教の歴史の中で、彼以上に豊かな実りを世界にもたらした人物はほとんどいない。」このように記す以前に、ベッグビーは、「この頑固で、衝動的な少年は、私達が回心と呼ぶ事柄に先行する状態である神秘的な全人格の明け渡しをする決心をした。」と記している。
 Religious Tract Society の発行した小冊子によると、「彼の少年時代、彼には、いかなる宗教的感化もなく、彼の性癖を抑える人もなく、彼の人格を整え形作ろうといういかなる企てもなかった。彼は成長するにつれ、気が荒く衝動的になり、彼独自の考えを持つようになり、彼の仲間である元気のよい少年達と冒険を探した。また、暇をつぶすあらゆるゲームや工夫の先頭に立っていた…突然の、父親の死は、彼の心に大きな影響を与えた。その頃から、ブースは、宗教に興味を持ちはじめた。それから間もなく、彼は、自分が必要とする魂の必要の全てが、キリストの贖罪のうちにある事を発見した。」
 その物語についての別の観点が、C.T.Bateman による「ブース大将の生涯」のなかに記されている:「偶然、ウェスレアン教会を訪ねた事が、英国教会の礼拝に行く事を止め、彼をウェスレアン・メソジスト教会の定期的な礼拝者とする事になった。メソジストの教理は、彼を魅了し、彼の人格の奥深くにある宗教的琴線に触れた。回心と救いは、この教会の働き人によって強調された真理であった。ウィリアム・ブースは、この直接的影響のもとに来た。彼は、咎の意識に捕らえられ、救いの必要を感じた。彼にとって、この経験は、十代前半の少年期の出来事ではあったが、全く明白な事であった;それは、彼の心を捕らえた。」 この点に関しては、ブース自身に語らせるのがよい。多くの伝記作者がするように、私達も、彼自身の言葉によって物語を進めよう。「私の多くの友人達は、世的であり、肉的であった。彼らのある者は、不道徳ですらあった。一つの特別な感覚が私を駆り立てた。それは、私の知っているこの様な事をして愚かに時を過ごしているという感覚で、その事のゆえに、私は、悔い改めなければ、来るべき日に滅ぼされるに違いない…」 その様な時、有名な筆箱事件が起きた。「私に対して天国の門は、私の過去の悪行のゆえ、閉じられていた。少年の取引で、私は、彼らに与える事で、私がいつも気前よく付き合っていると思わせておいて、仲間から利益を得るよう上手に振る舞っていた。彼らは、感謝のしるしとして、私に銀の筆箱をくれた。その贈り物を返すだけであったら簡単なことであったが、私が彼らを欺いていたことを告白することは、いつか、私が彼らに恥じを かかせることで、私にはできないことであった。私は、それを昨日のことのように覚えている。その場所、その時間、その問題に決着をつけようと決心したこと、立上がり、駆出し、私が騙していた当の本人を見つけると、私の罪を詫び、その筆箱を返した-たちまち、私の心の罪の重荷は消え去り、代わりに平和が心を満たした…  素の幸福な変化がやって来たその晩から、私の生涯の仕事は、神と人とに仕える愛すべきわざに生きることとなった。
私は、兼ねてより、真の宗教は、十字架にかかられた我が主を助けて、人々を救う主のわざをなすことにあると感じていた。」そして、それに続いて、「私の心を新しい感情が支配しはじめた。私は回心した。そして、私のうちにある全ての力をもって、失われた人々を求め救うことに没頭した。」
 この最後の所感は、全く人道主義的な慈善事業に強調を置く事が多くなりつつある今日の見解に対して、強調をしておく必要があるかもしれない。その様な見解に反して、救世軍のその方面での努力は、本来、魂の救いは、人間に対する最も確かな援助の土台であるとの認識から生まれたのである。ベイトマンの著した伝記は、ブースの関心を次のように述べている: 「彼は、『回心』という言葉で表現される神学を決して捨てなかった。彼は、それを悔い改めという形で、救世軍において教え、いかなる集会も、彼の考えに従って、罪人への招きがされずに終わることはなかった。この信仰の信念が、次第に広まって認められたのは、ブースの世界的な伝道活動に、大きな要因があることを否定できる人がいるだろうか?…  彼は魂への情熱を表現した。彼の日誌には、“魂の救いの為に働くことの必要性”とか、それに似た表現が、結果の詳細と共に、絶えず言及されている。彼は、その時、説教しており、いつもそうであったように、ある回心者を得た。」 他の人々も、この強調点を確認している。前に引用したベッグビーは、「歴史は、彼が人道主義に進み、その人道主義というものは、彼の信仰によって生み出された実であることを明らかにするだろう。」と言っている。カーとマルダーは、彼らの著書「回心」の中で、彼の働きについて、「伝道と社会的解放の見地から、ブースは、魂の救いがまず第一であることを強調することをためらわなかった。」と語る。
 また、もっと最近では、“Eardman*s Handbook to the History of Christianity*の中に、「救世軍は、物質的状態よりも、むしろ魂の問題に関心を持っている。ブースは、大きな社会的な困難が、レンガと漆喰が足りないだけであるかのような企てに、反対の意見を述べた。悲惨な状態にある人々を援助するために、まず、すべき事は、彼らの心に届くことであった。」と記されている。これらの最も優先さるべき事柄が、これからもずっと、優先されんことを。  ブースの葬儀(1912)に関する幾つかの点が、彼が、その生涯の最後にようやく認められるようになったことを描いている。彼の荘厳な葬儀を伝える新聞が、三日間に渡って、150、000部を越える部数に達したことは、驚くべきことです。その葬儀は、40,000人を収容できる巨大なロンドン博覧会ホールで行われた。リーダース・ダイジェスト(1965年2月号,p.302)の記事は、「多くの群衆と、女王がそこに共に集った。ホールの最後尾のほとんどわからない席に、ブースの確固たる支持者であった英国のメアリー女王がお座りになった。彼女は、土壇場で、前触れもなく、葬儀に参列することを決められた。 女王の隣の通路側の席には、かつて、売春婦であって、今は救われた女性が座った。棺が静かに運ばれて来たとき、この女性は、手を伸ばして、しおれかけた三本のカーネーションを棺の上に置いた。棺の上に置かれたのはその花だけで、葬儀の終わりまでそこにあった。
女王が、多分、問いかけるようなまなざしで振り返ったとき、その少女は、「彼は、私たちのような者を気にかけてくれたわ」と言った。