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Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-110  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 4章

  先月サウロ家とダビデ家の話を取り上げたが、今日のところでも変わらずにその話が続いている。もちろんすでにダビデは全イスラエルの王となっている。しかし、王朝が変わるという事態にイスラエル全体が不安定な中にあり、その状態が人々の思惑やひいては悪しき思いを引き起こしている。その姿をこの4章からは読み取ることができるだろう。私たちは今、平和な時代にあり殺戮を含む権力争いなどが起こることはめったにない。しかし、殺人まで行かなくとも、日々の生活の中に小さな争いが起こっていることは確かである。それは人間の心に悪、罪が根本的に存在しているからである。そのことに私たちは気を付けていかなければならない。もちろん日本においては事件や事故は比較的起こりにくい。しかし、決して起こらないわけではない。人間の悪しき部分に注意を払い、愛する者たちを助け、守っていかなければならない。
この4章ではイシュ・ボシェテの首を二人の人物がダビデにささげ、何らかの報酬を得ようとしたことが取り上げられている。しかし、それはダビデにとって望むことではもちろんなかった。価値観の食い違いが起こったのである。それは彼らがダビデの神に対する真実さを理解することができなかったからである。本来ダビデの信仰生活を見ているならば、そのようにするべきではないことが分かったはずである。そうでなくても、二人が信仰の中に生きていたなら、このようなことはしなかったはずだ。しかし、ことは起こった。彼らがダビデの人格に無関心で気を付けていなかったからである。このような出来事は先月までに取り上げた中にもいくつか起こっている。サウロを殺したと告げ、褒美を得ようとしたものがいたこと、ヨアブがアブネルを殺したことなどがそうである。これらのことをダビデは決して内密にしていたわけではないだろう。ということは、今回のイシュ・ボシェテの殺害もダビデの望むものではないことは明白にされているのである。よくダビデを観察していれば、興味や関心をもってその人格を注視するならば、ダビデが望むか、そうでないかは分かったはずなのである。この二人の男が行ったことはそれを完全に無視したものだった。つまりはダビデの最も大切にした信仰を理解しようとしなかったのである。同じように信仰生活を送っている教会でも、悲しむべきことだが起こりうる。だからこそ、私たちには真実の中で信仰生活を送り続けているかどうかが重要なのである。どこかで手をぬいていたり、中途半端にそのことを行っていたりすると神の御旨、人格の願いを捉えはぐって、まったく逆のことを行ってしまうのである。もちろん神の言葉を直接的に聞くものはいない。しかし、私たちが同じ価値観を信仰生活に持ち続け、真実に生きようとしなければ隣人の心にもしくはお互いの心に少なからず傷を与えることになる。ダビデのところにやってきた二人の男のように即刻裁かれるということはないが、神は私たちが聖言の中に生き、御心に従って歩むことを怠るなら、それをどれほど悲しまれるだろうか。御旨を探り極めることに私たちは決して無関心であったり怠惰であってはならない。なお神の御心を探りつつ、恐れ畏まって、信仰生活を歩み続けていきたく願う。


Q:ピリピの教会について先日から礼拝で語られていますが、パウロのピリピの教会に対する愛がとても大きいと感じました。なぜこれほどまでに他との差があったのでしょうか。その愛の根拠はどこにあったのでしょうか。

A:パウロはすべての教会を愛していたことはもちろんである。そこに差を設けようとは決してしていない。そして原則的にキリスト教の世界自体は人の行いによって救いがもたらされるかどうかが変わるものではない。ピリピの教会の姿をパウロが喜んでいるのは彼らがささげものをしたからというわけではなく、ピリピの教会の真実さ、その信仰の生き方を喜んでいるのである。彼らはパウロのいうことを聞いて、実践するからこそ聖霊に満たされ、守られ、祝福されていた。その祝福された中からパウロを支援するということを行ったのである。それを感謝と共に受け取ったパウロだったが、それによって教会教育への差をつけたわけではもちろんない。しかし、ピリピの教会のように支援を行うために使者を送れば、パウロはその使者をただ感謝の言葉だけで送り返すわけがない。パウロはそれに加えて、祈りと、ピリピの教会の成長のためを願い、抱えていたであろう問題に対する回答や助言を手紙にしたため、使者にゆだねたのである。そこにはパウロの大きな期待もあっただろう。しかし、それは必然的に生まれてくる差である。けっして依怙贔屓をしようというわけではない。求める者に与えられる特別な祝福というものがこの世界には事実ある。
日本に現在多く存在する宗教で取り扱われているのは物言わぬ神である。だからこそ自分のスタイルやスタンスにいいような神を形作っては、自分の悪いところを正しもせず、それがどうにかなったらいいと神頼み的な生き方をして満足しているのである。対してキリスト教は人を介して神が語るという人格的な交わりを行う宗教である。本来行うべきことが語られ、自分の悪いところを指摘される。それがキリスト教の重要な点である。本来人間は人から指摘されることを嫌う。しかしだからこそ、直接語られることを受け入れる者は明らかな変革や、変化が与えられるのである。逆に聞かない者は一向に変革することができない。日本の宗教のように自分がどう好きに生きるか、信じているかということだけで終わるものではないのだ。話を戻すが、ピリピの教会はパウロと人格的な交わりを強く持ち続けた。だからこそ、好循環に入れられ祝されていったのである。私たちの教会が大切にしているのは人格の交わりである。それは先ほども語ったように私たちに変革をもたらす大切な営みだからである。
先日まで語っていた創世記のヤコブの一族を取り上げた時に、ユダの姿を語った。彼はヨセフの問題に対する贖罪を純粋な信仰で行ったわけではない。彼がそこに至ることができたのは、父ヤコブを愛することができたからである。彼は一時群れから離れたところにいたことが聖書に書かれている。しかし、嫁のタマルとの信仰の交わりによって、自らがどうあるべきか考え、もう一度群れの中に戻っていった。これは神の導きである。だからこそ、彼はもう一度父ヤコブとの交わりを持ち、彼を愛したのである。人は自分たちの知識を広げることや、調べて何かを知ったことで信仰があたかも培われていると勘違いしやすい。しかしそれは本来のキリスト教ではない。ただ日曜日に礼拝に来て話を聞いて帰るだけでは信仰は培われない。教会の中で信仰の友や、聖徒との交わりがないと私たちの信仰は自分中心の偏りがあるものや、欠落したものになってしまうからである。だからこそピリピの教会のように良い循環の中に自分を置いていくためには、私たちも積極的に人格との交わりを行っていかなければならないのである。また、そうすることでクリスチャンの家庭も守られていくのである。子どもたちを信仰へと導いていくために大切なのはどれだけ親が牧師と交わりを持っているかである。それは家庭を好循環へと導き、子どもたちにも良い影響を与える。彼らも成長して信仰生活の必要を牧師や教会に求めるようになるのである。そういう意味でも人格的な交わりは重要なのである。


Q:会社の中で他者とのずれを治そうと交わりをもって取り組んでいます。信仰を持っていない人と交わるとき、その関係の中で自らが信仰者として真実に立とうとしていると相手も同じように対峙してくれるということがありました。そのようなことを大切にしていくとよいのでしょうか。

A:そのとおりである。この世界を取り仕切っているのは神である。その秩序、システムは神が造られた。だからこそ、神の語っておられるメッセージや聖言の中で生きるとき、物事が動いていくのである。しかし、逆に言うならば、信仰者であっても、自らの行動が信仰に倣って行われていないと、どんどんと悪循環の中にはまっていってしまうのである。だからこそ、気を付けていかなければならない。また神の秩序は変化しないが、私たちの姿勢は変化している。年齢的成長も、信仰的成長もある。子どもへの対応ですら、一週間前はいうことを聞かせるためにうまくいった方法がもう通用しないということもあり得る。それは人格が変化しているからである。そのことを理解していかなければならない。そして相手を常に観察し続け、かかわっていくことが大切なのである。先ほど取り上げたダビデの姿にも現れているように、前に良かったからといつまでも同じ対応でいると、それは相手の意図しているところではないということもあり得るのである。だからこそ、神の息吹の中で自分を生かしながら、よく観察し慎重にこと行わなければならない。
私たちの人間関係の中には福音がなければならない。それは信仰者同士でも、世の中の人との関係でも同じである。私たちを活気づけ、力付けるのは福音である。先日私に奥さんを愛していくためにはどうしたらよいかと聞いてきた兄弟に私は「ただ黙ってキッチンにいる奥さんの後ろに立って観ていなさい」といった。それはただ立っているだけで終わるものではない。必然コミュニケーションがとられるのである。福音とはこのように与えられた時間を自分のために使うのではなく隣人、奥さんのために使っていこうとすることで生まれていくものである。いつまでも自分中心で周りは二の次、三の次というような状況では一向に福音を自分のものにしていくことができず、祝福を得ることもなく、悪循環へと陥っていくのである。おかしい、なぜうまくいかないのか、「なぜですか神様」と思ってしまう人もいるが、結局は勘違いの中に自分を生かし続けているからこそ、そのようなことになるのである。だからこそ、私たちはアンテナを張り続け、他者と交わりを遜って行いながら、観察し、成長させていかなければならないのである。この時の遜りは決してただ相手に頭を下げているということではなく、相手を思いきれない自分の姿を悔んだり、悩んだり、畏れていく中で生きていくことである。そうすることで私たちは経験し、成長し、変革されて、好循環の中にお互いを入っていくことができるのである。


Q:コリント人への手紙第一15章45節に、最初の人アダムと、最後のアダムとありますが、どのように解釈すればよいのでしょうか。

A:最後のアダムとはイエス・キリストのことであると考える。パウロは最初の人アダムによって全人類が罪の中に入り、最後のアダム、キリストによって全人類が救いの中に入ったということを語っている。これによってキリストの贖いが絶対的なものであることを強調しているのである。ただ私たちが分からなくなりやすいのは、人間は救われてもまた罪に陥る可能性があるということである。決して罪を犯さないものに変えられるわけではない。ただ、そのような私たちであっても罪をもう一度悔い改め、イエス・キリストの贖いを信じるときに、その贖いはもう一度私たちのものになるのである。それもパウロは語っている。それほどまでにイエス・キリストの贖いとは絶対的なものなのである。さらにパウロはイエス・キリストが復活したように、私たちも復活することが約束されていることを強く語った。そして最後の時にはキリストが再臨され、すべての信仰者がよみがえり、新しいものへと変えられることも示された。パウロは信仰者が営むイエス・キリストとの出会いや、救い、そのような人格的な交わりを体系的に整えた人物である。そのパウロが最も強調したことは「信仰による義」、「義認」ということである。ただイエス・キリストの救いを信じることが求められているのだが、それはもちろん形ばかりの信仰であっては意味がない。当然、心から信じていると私たちの生活は変わってくる。例えば、ここは高いところだけど安全だといわれても不安であれば、どこかにつかまっていたり、安全帯をつけたり、相応の姿を見せるだろう。いくら信じていると口で言ってもその行動がその人の不安を表しているのである。だからこそ、逆に私たちが心から神を信じているならば、生活そのものもそれに伴ったものに変えられていくのである。子どもは身近な人の信仰によってそれを知る。心から信じ、すべてをゆだねているということが分かれば子どもは自然とその中に生きるようになるのである。
先ほどのダビデに対してイシュ・ボシェテの首を持ってきた人がまるでダビデのためにと考えて行ったように見えて、むしろそれはダビデの怒りを買う行動だったが、一般常識から考えれば、むしろダビデの方がおかしいのである。しかし、信仰者は一般常識ではなく、信じることで飛躍したものの考え方ができるようになるのである。だからこそ、ある人から見れば、その行動から私たちが信仰を持って日々を歩んでいるということを理解するのである。そしてそれを一番に判断するのは子どもたちである。私たちは信仰の継承を一つの信仰者の基準としている。その子どもに対峙するときに私たちの信仰が試みられるのである。ダビデのそばにいたものの中にはダビデの信仰をみて、その飛躍したものの考え方を理解していた人たちもいただろう。その人たちはきっとイシュ・ボシェテを殺してきた二人の男の姿を見た時点で、「ああ、あの人はダビデの怒りを受けるだろう」と予測できただろうと思う。同じように子どもたちが親の信仰を間近で見て育てば必然的にその感覚を会得する。だからこそ、私たちの信仰は決して人の前に一時の取り繕ったものであってはならない。それは決して通用しないのである。


Q:使徒の働きの中で聖霊が許されないということがあることを語られていますが、それは私たちの生活の中でもやはり起こるのでしょうか。その時にはどのように歩めばよいのでしょうか。

A:パウロの計画が禁じられている、妨げられているということについて私は彼が優秀なゆえに起こったものではないかと感じる。彼は優秀だったからこそ、自分の計画通りにすべてが動くことによって自分の力にのみ頼って生きてしまうことを警戒した。そこで、彼は自分の思いや願いの中で閉じこもってしまうのではなく、その道が妨げられたのなら違う道を歩むことや、異なる方法をもって神の召しに応え、自らを従わせていくことを行ったのだと思う。彼は警戒の故に自分の考えを貫かず少しでも神が違う道をと示されるならそれがたとえ困難なことでも、予測不能の不安な状況でも受け入れて歩んだのである。それ故、彼は祝されていったのである。計画通りに歩めなかったとき、彼はこの旅がどうなって行くのかと思っただろう。しかしその時に同行者として申し分のない医者のルカが与えられ、テモテが与えられ、その後ピリピの教会が、さらにはコリントの教会で大いなる福音の働きがあって、最後にはエペソの教会へと導かれていった。私は最初のパウロの願いはエペソの教会にあったのだと思っている。そう願って計画を立てていたと私は捉えている。そのように考えると本来、彼が行こうとした道ではなかったが神の道に従うことで、ただ一つエペソの教会のみで終わるのではなく、多くの恵みを得たのだと捉えることができる。
私は以前先のことを考え、予測し、対応できるように備えていくことの必要性を語ったときもある。もちろん計画することも必要なのだ。しかし、パウロのように計画が妨げられるということもある。そのときに私たちがどうするかということが重要なのである。こうあるべきであるという考えや、こうなってほしいという思いは私たちを神の示される最善の道から外してしまい、神の御業の一翼を担うという使命を果たすことができない可能性がある。しかし、本来はパウロのように道が閉ざされたのなら、神の示される最善の道を探し、不安な中でも取り組んでいくことが必要なのである。計画していてそれがならないと私たちは落ち込んでしまう。しかし、計画したという事実は無駄にならない。対応、策というものを考えていくことはたとえ今許されていなくとも、これからある人生の中では許されるときもある。だからこそ、計画することも必要なのである。
ある兄弟は私と人格的交わりを持とうとして、電話で相談をすることや、個人的に話をする機会を大切にしていた。しかし、その兄弟はなかなか私の言葉に納得する人ではなかった。いつまでも納得できない彼に付き合い、私は何度携帯を片手に廊下を行ったり来たりしただろうか。それでも彼は私とそのような人格的な関わりを持とうとした。それは私が優秀だからということではない。私が神に召された者として彼が私を扱っているからである。私も召されたものとして彼と関係を持ち続けた。だからこそ彼は今、教会の中でもある責任を担い役員として立っている。何度も語っているがピリピの教会もパウロとの関係の中で祝されていった。しかしもちろん、ピリピの教会は決してパウロのためにあったのではない。ピリピの教会は神の教会として一人一人がその福音に生きながら、神の栄光を表そうと立ち続けたのである。それが結果的にパウロの働きを支えるということにもつながったのである。ピリピの手紙は感謝と同時に、期待からの教えが語られている。易しい問題をクリアーすれば、さらに上へと進んでいける。それは先ほども語ったように好循環が与えられる。だからこそ具体的な問題に当面する中で真実に生きるということが大切なのである。あなたが年老いたお父さんの免許を返還するということに取り組んだこともこのことと同じである。一人の人格が自分の持っている資格を手放すということは決して簡単なことではない。しかし、そこにあなたは事故のリスクをただ突き付けて手放させて終わるのではなく、そのために家族がどのように動くか考え、一つ一つ手を打って、共にその所を乗り越えていった。そして今あなたはお祖父さんがそのなかでも喜び感謝して生きることができるようにその生活を整えようとしている。今はまだ「免許があればな」といわれることがあるかもしれない。しかしそれはいつか、「もうそのことは良い、今はこの生活の中で感謝して生きている」と思えるようにしていける。そのためにも、お祖父さん一人ではなく、なお家族全体がその思いを共有していけるのである。あなたのその姿は2人の子どもたちが必ず見ている。そして彼らはそこから神を信じ、愛する営みを知るのである。それは彼らがあなたの期待する福音に携わるものになるために必要なことなのである。
先日家庭集会で、ある兄弟が「同僚が仕事をきちんとしないということ」にイライラして家に帰ると奥さんにそのことを愚痴ってばかりいたということを聞いた。私は彼に「ならあなたの同僚がきちんと仕事をしたとして、あなたは仕事が早く終わったからと6時間勤務で家に帰れるのか?と聞いた」もちろん回答は「いえ8時間働きます」というものだった。それならば結局相手がどうしているかということは関係ないのだ。むしろ、相手に腹を立てて、仕事に影響が出てしまうことの方が問題である。もくもくとただ自分のするべき責任を果たすことが大切なのである。そう私が話したら、後日彼は「そう考えたら、同僚のことが一切気にならなくなりました」と言っていた。それが私の言う合理性なのである。それを知り、心を整えることができるのが、私たちの持つ宗教なのである。


Q:今日取り上げられたイシュ・ボシェテを殺した2人の若者のことで、彼らが良かれと思って行ったことが、実際は真逆のことで、それを理由に殺されてしまったことがかたられました。彼らは先ほどのパウロではないですが、実行の前に聖霊の差し止めがあってそれが誤りであることを理解することはできなかったのでしょうか。

A:彼らにはわからなかっただろうと考える。旧約の時代は高い緊張感の中ですべてのことが行われている。彼らの行動はサウロ家が落ち目だったからこそ、策略を練ってダビデ家に取り入ろうとして起こったことあった。それは抜け駆けである。本来彼らは下働きをして、下積みをしながらだんだんと上がっていく必要があった。彼らはもともとダビデにとって敵側だった。ひょっとしたら、命を直接的に狙ったこともあったかもしれない。それぐらいに互いの関係は緊張したものだった。それでも相手に心から仕えていくならば彼らはきっとそこから立ち上がっていくことができただろう。しかしこれは一足飛びに行きたいという邪念から引き起こされた愚かしい出来事である。よくニュースなどでも取り上げられるが、良い仕事についていながらも、たった一つの過ちでその職を失ってしまうことがある。それはその人がズルをしようとしたからである。そのような命とりになりうる出来事は私たちにも日常茶飯事にある。だからこそ私たちは隣人の干渉を受け、自らの行動に抑止力をかけてもらわなければならない。そうでなければ、私たちは自分に甘く、すぐに好きなことに自分を走らせ、逆に嫌なことから遠ざかったりする。しかし自分を愛してくれる人がいれば、あなたの頭をたたきながら「何をやっているの」と抑止をかけてくれる。それは私たちが変革するためには自分だけで取り組んでいくよりはるかに効率的ある。だからこそ、私たちはそのような相手を大切にし、愛していかなければならない。なぜならその人は愛の故にあなたに嫌われるかもしれない行動をしても抑止力となってくれているからである。あなたがその人を大切にすれば、なお変わらず、あなたは自分のことを自分の力だけでなく、愛する人の力によって豊かな変革の中に置いていくことができる。しかし、もし、あなたがその人をひどく扱うなら、その人はあなたに何も言わなくなるだろう。そのうちに悪循環の中に陥ってしまうのである。話を戻すが、彼らはこのたった一つの愚かしい出来事でその生涯を終えなければならなくなった。あなたも結婚した当初は何か嫌なことがあるとすぐ本屋にいって何時間も好きな本を読んでいて家に帰ってこないということをしていただろう。それを続けていたならきっと奥さんに「ああもうこの主人はダメだ」と思われていたかもしれない。しかし、あなたは変革することができた。奥さんを愛して、大切にすることができるようになった。だからこそ、奥さんはあなたが違う方向を見ていると「こっち」と示してくれたり、娘を使って声をかけたり、私と共にジムに行くことを勧めたり、あなたの行動を良い方向に向かわせていてくれるだろう。またあなたの娘はあなたが大好きだろう。それは奥さんがあなたを愛しているからである。奥さんがあなたを愛さなくなったら、娘もあなたを嫌うようになる。なぜならお母さんが娘に「お父さんを愛しなさいよ」と教えるからである。もし生涯、娘に愛してもらいたかったら奥さんを生涯愛しなさい。

(仙台聖泉キリスト教会会員)