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キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(37)—

野澤 睦雄


「主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」(出エジプト記9:13-19 )

2.各論
(5)高ぶり < 3 >
  出エジプト記に記されている、モーセと対決したパロの罪は「高ぶり」でした。
 モーセとパロの対決のはじめはこうでした。「その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」」(出エジプト記 5:1-2)
 パロの言い分はこうでした、「主とはいったい何者か。・・私は主を知らない。」
それで、彼はいやっと言うほど、主を知らされることになりました。「災害」によって国と国民を打たれ、最後は自分の初子も打たれてしまいました。
 パロの高ぶりは、頑固さを生み出しました。
「主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」(7:17-18)
パロは、主を分からせるため次々と示された災害にも「こころをかたくなにし」分かろうとしませんでした。
 高ぶりが理解力を失わせる好例です。家来達は分かったのです。「家臣たちはパロに言った。・・主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」(出エジプト記10:7)

(仙台聖泉キリスト教会員)