同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-2 —

「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:15-17)

  前回触れなかった、聖書信仰を強調しなければならなくなった背景と、その展開を学びたいと思います。教会史に関わることですので論拠とする出典が必要ですが、私のところには参照する資料がわずかしかないので確かなことがいえません。大まかな把握でお許し頂きたいと思います。

1.聖書信仰が強調された背景
   .自由主義神学
   .新正統主義神学
 2. 聖書信仰に立った人々
 3. 日本の状況
   .新神学の蔓延
   .日本における「聖書信仰」運動

 1.聖書信仰が強調された背景

<自由主義神学>
 1700年代終わり頃から、ケアンズが教会史に「信仰の敵」と表現した群れが台頭してきました。先頭に立ったのは、シュライエルマッハー(1763-1834:ドイツ人)という人物です。
 「自由」と呼んでいますが、それはサタンが人を欺く「光の衣」であって、自由と呼ぶべきものではありません。
主な内容を列記すると
・聖書の霊感(神の書であること)を否定します。聖書はただの人間の著作であって、他の書物と同等であるとします。
・聖書の権威を認めません。
・聖書の無謬性を認めません。
・聖書に記されている奇跡は神話やフィクションであって事実ではないとします。
・世の常識、自然科学とくに進化論などを正しいものとして、それによって聖書の記述を判断します。
・「高等批評」をします。
高等批評とは、聖書に編纂されている著作の真正性や、著者や執筆年代などの真正性を疑います。例えば、マルコの福音書はマルコが書いたのではない、とか、テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙はパウロが書いたものではなく後で書かれたものだとする、など。
・下等批評(本文批評)をします。
 下等批評とは、聖書の本文に書かれている記事の真正性を疑うことにはじまり、その内容を先に述べたように、世の常識に照らして、多くの記述を嘘(神話、フィクション)だといいます。

悲しいことにこのような主張が、当時のプロテスタント教会に広く行き渡ってしまいました。

<新正統主義神学>
 次に、自由主義神学は行き過ぎだとして、その考えを修正するひとびとが現れ、後で新正統主義神学と呼ばれました。
もちろんたくさんのひとがいますが、名の知られている人物は、カール・バルト、エミール・ブルンナー、ルドルフ・ブルトマンなどです。

・カール・バルト(1886-1968:スイス人)
自由主義神学と同じく、聖書を人の書とし、聖書批評を受け入れるが、神が聖書のことばを通して働かれることがあり、「そのときだけ聖書は神のことばになる。」とします。

・エミール・ブルンナー(1889-1966:スイス人)
バルトとおなじ立場に立ちます。聖書に記載されている奇跡を信じない、聖書の霊感を信じないなどということが紹介されています。

・ルドルフ・ブルトマン(1884-1976:ドイツ人) 新正統主義の立場ですが、ハイデッガーの実存哲学を神学の分野に取り入れて、実存論的神学を提唱しました。世の実存哲学者にはヘーゲルやキルケゴールの名が挙げられます。「実存」とは、物ではなくひとに関することについて、「理念として導き出されたものが本質」ではなく「現実存在が本質である」とする概念だと考えてよいでしょう。当該する事柄について、書かれている教えよりも、自分が実際に見、経験することを優先します。極端な言い方をすると、「自分が見ていないものは存在しないことと同じだ」ということになります。自分の見ていない奇跡は存在しないし、救いを経験したことのない人には救いは存在しない、きよめを経験したことのないひとにはきよめは存在しないとしてしまいます。

2.聖書信仰に立った人々
 1900年代に入ると、自由主義神学、新正統主義神学がプロテスタント教会を飲み込んでしまうように広がってしまったことに対抗して立った人々がいました。

<キリスト教根本主義、原理主義>

・J.G.メイチェン(1881-1937:アメリカ人)
アメリカ合衆国長老教会の牧師でしたが、その教会が自由主義神学の立場をとるようになったので、正統長老教会を設立し、カルビン主義信仰の中心であるウエストミンスター信仰告白を信じる立場をとりました。著書「パウロ宗教の起源」において自由主義神学に反論しています。彼は自由主義神学に対して「これはキリスト教ではない」と断言しています。

・B.B.ウォーフィールド(1851-1921:アメリカ人)
長老派教会の牧師。聖書の無謬性を擁護し、自由主義神学に対抗しました。著書「聖書の霊感と権威」が日本でも翻訳刊行され、その問題を考察する参考にされました。

<信仰復興>
 記述している年代が前後しますが、神はリバイバルによって、新しく教会に加わる人々を起こし続けられたことが分かります。ルター、カルビン、ウェスレー、ブースなど、多くの人々を救う働きをした人々がいましたが、自由主義神学の嵐が吹き荒れた時代にも、アメリカで、次々と信仰復興の働きがありました。
第一次リバイバル(1730年頃~)
ニューイングランドを中心に、ジョナサン・エドワーズ、ホイットフィールドなど。
第二次リバイバル(1800年頃~)
チャールズ・フィニーなど。
第三次リバイバル(1850年頃~)
D.L.ムーディー、A.B.シンプソンなど。
 ムーディーはムーディー聖書学院をつくり、シンプソンはナイアック聖書学校を設立、彼らに続いて多くの福音的な聖書学校が設立され、多数の働き人を世に送り出しました。
 自由主義に変質してしまった人々の信仰を取り戻すのではなく、新しい民が生み出されたように見えます。
 また、教会史に名前が挙がってこない、数多くの古い良い信仰を保ったひとびとが数多くいたことは当然です。

3.日本の状況

 <新神学の蔓延>
 自由主義神学も新正統主義神学も日本では、新神学と呼ばれるようになりました。その理由は、ドイツのチュービンゲン学派の宣教師シュピンナー(1854-1918)が1885年に来日し、「新教神学校」を開設し自由主義神学を教えたためでした。設立した教会を「普及福音教会」と呼びました。「福音」ということばが自由主義神学を主張するひとびとの間で使われるようになったので、保守的信仰に立つ人々は区別のため、自分たちの伝える福音を「純福音」とよぶようになりました。
自由主義神学は、たちまち日本のキリスト教界に広まりました。当然多くの人々がその役割をしましたが、その中から植村正久と金森通倫の二人を取りあげてみます。

・植村正久(1858-1925)
オランダ改革派の宣教師によって入信。
新神学に関わり、いきついた信仰の概要は以下のようなものでした。
 キリスト教根本主義に反対。
代償的贖罪は教会の信条にすべきでない。
言語霊感、聖書の無謬性に反対。
聖書には科学や歴史上の誤りがある。
アウグスブルク、ドルト、ウェストミンスター議定書(信仰告白)は不要。
聖書は、自由、寛大に進歩の余地を与えて解釈すべきである。

・金森通倫(みちとも)(1857-1945)
信仰の出発点は「熊本バンド」でした。
 熊本バンドを生み出した熊本洋学校が閉鎖されため、同志社の英学校に転校、新島襄により受洗。新島襄の健康不調の際学長代理をつとめました。
東京番長教会牧師をしましたが新神学に傾倒。
それによって信仰は覆され、1898年棄教宣言をしました。
大蔵省の官吏になり貯蓄奨励のため全国を遊説して歩きました。
1914年、妻の死を契機に信仰を取り戻し、救世軍に入隊。1927年にホーネス教会に入会、東京聖書学院名誉教授に迎えられ「神、罪、救い」を説く伝道を展開しました。1928年柏木聖書学院の名誉教授に就任。1932年娘の胃がんのため神癒の祈りをしましたが祈りは聞き届けられず死去、そのためホーリネス教団を去りました。
 金森通倫の新神学との関わりと信仰の回復について本人の証が、パジェット・ウィルクスの「救霊の動力」に載せられています。(同労者ホームページの下欄にあるリンク、パゼットウィルクスの著書「救霊の動力」に入ると第五章3節の終わりの部分
http://sacellum-chimistae.net/service/chapter_5.html
 にあります。)
金森がホーリネスを去る原因となった「神癒」は、聖書信仰の現場のように思われるかも知れませんが、聖書は、神癒は聖霊の賜物として特定の人に与えらるものだとしています。パウロの実例では、癒やすことができたときもあり出来なかったときもあったことが記されています。パジェット・ウィルクスは神癒の賜物を持っている働き人が日本人の間にあることを見ていることを証言していますが、「神癒」はすべての人のものではありません。その位置づけを間違って受け取らないようにしましょう。
 悲しいかな、日本でも自由主義神学の立場をとる人々のほうが、聖書信仰の立場をとるひとびとより圧倒的に多くなってしまいました。

<日本における「聖書信仰」運動>
日本におけるプロテスタントの宣教百年を祝って、聖書信仰を掲げる諸教団、教派、教会が協力して1959年に、
・日本宣教百年記念聖書信仰運動
を展開しました。
 その意味合いは、それまで聖書解釈や掲げる信条の違いに拘って、協力できなかった諸教会が、聖書そのものを捨ててしまう「外敵」に立ち向かうために団結して行動したことが重要です。
掲げた標語は、「聖書は誤りなき神のことば」で、中心的な働きをした人は、日本キリスト改革派教会の岡田稔牧師、インマヌエル綜合伝道団の蔦田二雄牧師でした。
記念の大会が行われ、また日本キリスト改革派教会吉岡繁牧師著「聖書信仰」が記念出版されました。
その運動を継続するために1960年に

・日本プロテスタント聖書信仰同盟
が結成されました。
聖書の「全的無謬性」がその合意点で、初代実行委員長は、日本キリスト改革派教会常葉隆興牧師でした。
 聖書信仰を擁護し広める運動を展開し、聖書の改訳を行いました。聖書信仰同盟は、1986年に日本福音同盟に統合され使命を終えました。

 現在では聖書信仰に立つ信者数が、大幅に挽回していると聞いています。