同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

— 「知らない」と「知っている」の違い —

石井 和幸

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
(マタイ 7:21〜23)
「しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊は、わたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
(ヨハネ 10:26〜27)

 先日、私の家内がある失敗をしました。家内は失敗したことを私に報告しませんでした。私は家内の口からではなく、違うルートで家内の失敗を知りました。・・・家内は自分なりに考えて、主人である私には事後報告をしようとしていたのです。
 けれども私は家内に、今回の件で第三者に、「私は知りませんでした」と言うのは不本意であること。それにせっかく伴侶者として対策を立てようとしても、妻が何も言ってこないのでは、僕は対策の立てようがないじゃないか・・・そう家内に話しました。もちろん、主人の耳に入れる必要のない事柄、場合もあるかもしれません。しかし、今まで一人で舵取りをしてきた独身時代とは意味が違う…そのような会話を夫婦でする時をもちました。
 私は同時に、教会における信徒と牧師の関係を思い浮かべました。どんなに信徒が恵まれた証しをしても、困難を乗り越えた証しをしても、もし牧会者(牧師)とその戦いを共にしていなければ、牧会者は、「その件は私は関わ ってません、知りませんでした。」と言うしかない。しかし、信徒の霊的責任を預かり、また愛をもって祈り、関わる牧会者にとっては、それはとても悲しいことなのです。実は私もそのような信徒でありました。牧師先生に何度もはがゆい、悲しい思いをさせてしまっていました。今でも、注意深く歩まないと、そうなってしまう危険性があります。
 私が昨年、今の家内と婚約する時に、婦人伝道師の先生は、家内に対し、また家内の出身教会である基督兄弟団山形教会の牧師先生方に対し、私と祈りを共にし、多くの涙と喜び、労苦を共にしてきたことを証しして下さいました。山形教会の先生方も、家内と信仰の歩み、教会で労苦を共にし、主の業に用いられる器であることを祈りながらいたことを証ししてくださいました。そして、私は仙台の牧師先生ご夫妻から、このことは単に一個人同士の結婚ではなく、教会と教会のお付き合い、交わりが始まることをよく心に留めておくようにと、示されたことでした。
 3月16日に、仙台聖泉教会と、基督兄弟団山形教会との合同礼拝が行われました。私達夫婦のために祈ってくださった方々、そして今も祈りを共にして下さる方々が多く与えられていることを覚え、大変感謝した時でした。そこには単に一人の男女が結ばれたのではなく、小さき者を豊かに知り、小さき者と共に歩む双方の教会の祈りが、一つとなって神に受け入れられたことの証がありました。そして、私達夫婦に「信仰の継承」という使命を、はっきりと示される時でありました。この3月、神様のみこころを知ること、また神様に私達の歩みを知って頂き、是正と成長を豊かに与えられることが、家庭を建て上げ、教会を建て上げることの大切な営みであることを、教えられた時でありました。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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