同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— み足の跡に従う —

「ある律法の専門家が・・言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。・・たまたま、祭司がひとり、その道を下って来た・・。同じようにレビ人も、その場所に来て・・。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、・・。この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい」。
(ルカの福音書 10:26〜37)

 イエス・キリストの救いに与った私たちの目標は、「キリストに似た者」(ヨハネの手紙第一3:2)となることです。その内容は、
  イエスと同じ心(心情)を持ち
  イエスと同じ思想に立って
  イエスと同じ行動をする
ということになるでしょう。それが引用したみことばに出てくる「心を尽くし・・」ということに表されています。
 イエス・キリストご自身が、よきサマリヤ人であるといわれていますが、私たちはこの物語を読んで、自分を誰の位置に置くでしょうか。傷ついた強盗に襲われた人でしょうか。それとも、祭司かレビ人、またよきサマリヤ人でしょうか。
 もし傷ついた旅人であったら、よきサマリヤ人である方にであって介抱して頂き、その救いの豊かさに感謝することでしょう。 祭司、レビ人に似た自分を発見したら、そのふがいなさを嘆くことでしょう。あるいは、助けの手を出さなかったその理由を考えるでしょうか?
 引用箇所の焦点は、誰が隣人なのかということにあり、主役は強盗にあった旅人ではなく助ける側の人です。あなたは、この場合どうするのか?と問われています。
 私たちに求められていることは、「たまたま・・通りかかり」と記されていること、つまり、神の導きよって助けの必要なひとと遭遇した場合にあてはまります。その内容は千差万別ですが、そこでイエスと同じ心情、同じ思想、同じ行動をとるか否かを問われるのです。
 私たちのキリスト教は、思想、心情で終わらず、行動を伴うものでありたいものです。

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