同労者

キリスト教—信徒の志す—

信仰良書

神への道 (84)

D.L.ムーディー 著 山田 大 訳

 (前号より)さて、私たちが誰かのことを「知っている」という時に3つぐらいの違った段階があると思います。1つは、単に人伝に聞いただけ、という場合で、2つ目は、一度紹介された程度のことを指す場合です。そのような人々のことは、ほんの少ししか知らないでしょう。しかし3つ目には、何年もの間よく知り合っている場合というのがあり、そのような人のことは、深く知っていると思われます。同様に、今日の教会の内外にも3種類の人々がいると思います。第1にキリストをただ本を読んだだけ、またはうわさを聞いただけで知る人です(そのような人々はキリストをただ歴史上の人物としてとらえます)。第2はほんの少し個人的に主を知ろうとする人、そして第3に、パウロがそうだったように、「キリストとその復活の力を知り」たいと渇望する人です。私たちはキリストを知れば知るほど、キリストを愛するようになり、より良くキリストに仕えることが出来るようになるのです。
 十字架につけられたキリストを仰ぎ見、どのように主が罪を取り除いてくださったかを見ましょう。主は私たちの罪を取り除くために現れてくださったのです。ですからもし私たちが主を本当に知るなら、まず第一に罪からの救い主として主を見なくてはなりません。ベツレヘムの野で御使いが羊飼いたちにこう言ったのを覚えているでしょう、「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカの福音書 2:10—11)。そしてもしあなたがキリスト聖誕700年前のイザヤに遡るなら、この言葉を見出すでしょう、「わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない」(43:11)。
 また、ヨハネの第1の手紙4章14節にこうあります「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています」。あらゆる異教の宗教は、人が神に到達する道に精進することを教えます。しかしイエス・キリストの教えでは、神が人々を救い、罪の穴の中から引き上げるために降りて来てくださることを教えています。ルカ19章10節ではキリストご自身が、地上にいらした理由を「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と人々に語っておられるのがわかります。ですから、私たちの出発点は、ゆりかごからではなく十字架からなのです。キリストは御父への新たな生ける道を開かれ、その道からあらゆる躓きとなる障害を取り除かれました。ゆえにキリストを救い主として受け入れる人は皆、救いを受けることが出来るのです。
(訳者:仙台聖泉キリスト教会 会員)

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