巻頭言
— 同労者の視点で —
野澤 睦雄
「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」
(テモテへの手紙第二 2:3)
当時の私の勤め先は東北大学で、工学に関する研究者、助手ですが一応大学の教官でした。ある一定の年限の間に、学位を取得し、どこかの大学に招かれてそこで働くのが大方の流れでした。6年ほど過ぎた時、そろそろ動いてはどうか、と、師事していた教授が勤め口をさがしてくれました。その内容は八戸工業大学の助(准)教授に招聘してくれるというものであって、まだ28歳で博士号はおろか修士号も持っていなかった私には破格の提示でした。
私はその話を即答で断りました。それを受ければ、仙台を離れなければならないからです。それはこの教会にいられないことを意味しました。結果として、私は学術研究の世界にはとどまることができず、民間企業に就職口を探すことになりました。民間企業についても教授は、民間でいいなら探してあげるよ、と、日立製作所日立研究所の主任研究員など、いくつか探してくれました。教授の見解は、親会社に勤めなさい、ここでは子会社に勤めることになるが、昇進するのは親会社の人間で、子会社に勤めるとそれを指をくわえて見ているようになるよ、ということでした。ですから、教授は例え民間企業でも大企業でありその親会社に私を勤めさせたかったのです。
私は教授の意見を聞き入れないで、第二精工舎(今のセイコー・インスツルメンツ)の仙台にある子会社、仙台精密材料研究所(今のエスアイアイ・マイクロパーツ)に行くことにしました。会社での昇進とかという点では、教授のいった通りでしたが、代わりに私はこの教会にいつづけることができ、この世の僅かなものと引き替えに霊の豊かな恵みを得ました。
私たちは、働いて収入を得て生きていかなければなりません。会社にはその会社のもつ風土といえるようなものがあって、どこに勤めるかによって、大きな影響を受けることはいうまでもありません。しかし、仙台にある、ということを限定して選択したことは正しい選択でした。どんなに教会を愛する思いがあっても、他の土地にいってしまっては、「同労者」はつとまりません。
4月、若者達が勤め先に散っていく時節に、私自身の選択が思い浮かびます。そして、彼らが同労者の視点で物事をみることができ、自分の救われた教会にいつまでもいられるような選択をしてくれることを願っています。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)