聖書研究
— 万人祭司・万人予言者・万人王(第28回) —
野澤 睦雄
2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)
- イザヤ
万人予言者という視点で、旧約の予言者たちが、その予言職に相応しい人格・品性・技量を備えるために、神がお取り扱いになった内容を学んでいます。
今回はイザヤを取り上げたいと思います。イザヤは歴史書では、他の予言者たち同様働きの場面に突然その名が記されます。「ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書きしるした。」(歴代誌第二 26:22)イザヤの働いた年代は「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」(イザヤ書 1:1)ですが、次に、歴史書に彼が登場するのは、ヒゼキヤのもとに、アッシリヤの軍が攻めてきた時でした(列王記第二 19:2以下)が、イザヤ書には、その間の記事も書かれています。
既に予言職をつとめていたイザヤですが、彼が神のお取り扱いを受けた記事は、よく知られています。ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」イザヤは人の子イエスのように謙卑の姿をとられたお方でなく、威光に満ちた神の姿である「高くあげられた王座に座しておられる主を見た」のです。神の聖に触れたとき彼は己の姿を認識しました。そしていいました。「私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」と。彼は預言者でしたから、くちびるの潔い者でなければなりませんでした。「ああ。私は、もうだめだ」とイザヤが言っている部分は、文語聖書では「禍なるかな。我、滅びなん。」と訳されています。彼は当時のユダヤ人たちと同じように、汚れた私が、この聖なる主を見てしまったから、私は滅びると思いました。
(イザヤ書 6:1〜8)
セラフィムが祭壇の火を彼のくちびるに触れて、神が彼を潔められたことをしめしました。彼は預言職に相応しい者となり、神が派遣者を求めておられることに応えました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
モーセの場合もそうでしたが、預言者は聖い神の人であって、神の聖を顕す人なのです。今の私たちは、直接神を見るような異象を求めるべきではありません。そうではなく、聖い神の人を見るのです。イエスは「私を見た者は父を見たのです。」(ヨハネの福音書 14:9)と言われましたが、潔い神の人(キリストの人)のうちに、キリストを見ることができるのです。
聖い神の人に触れて、人は己の汚れを認識するのです。もちろん、汚れを好んで潔い人のとこれに近寄らない人々もいます。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネの福音書 3:19〜20)とイエスがいわれた通りです。そのような人々には、「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」(イザヤ書 6:9〜10)というみことばが当てはまるでしょう。
「万人預言者」であって、キリスト者すべてが預言者であるという意味は、キリスト者すべてが、神の聖を顕す人に召されていることですから、私たちは自分の実態を知ったなら、「禍なるかな。我、滅びなん。」と叫ばずにはいられないでしょう。私は汚れた者で、汚れた人々の間に住んでいると。
既に預言者であった、イザヤがそう叫んだように、既にキリストの救いに与っている私たちも、もし神の祭壇の火に触れさせて頂いていないなら、いまいちど神にお取り扱い頂き、真に祭壇の火に触れさせていただき、神の聖なることを顕すに相応しい者とさせていただく必要があります。(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)